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福岡地方裁判所小倉支部 昭和47年(ワ)743号 判決 1975年3月31日

原告 秋根康之 外五名

被告 財団法人小倉地区労働者医療協会

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  原告らが被告に対し雇用契約上の権利を有することを確認する。

2  被告は、(1)昭和四七年二月二七日以降毎月二五日限り、原告秋根に金一八一、四七五円を、同佐藤に金一三一、八二五円を、同成瀬に金三四五、八〇〇円を、(2)昭和四七年七月一三日以降毎月二五日限り、原告坪井に金二〇六、〇〇五円を、同河野に金一八二、一四五円を、同清水に金一七五、〇〇〇円をそれぞれ支払え。

3  原告らが被告に対し、三萩野病院の建物内に立入り診療する権利を有することを確認する。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二当事者の主張

一  請求原因

1  被告は財団法人であり、三萩野病院の経営を主たる業務としている。

2  原告秋根、同坪井、同清水は昭和四五年九月一日、同河野は同年一〇月一日、同佐藤は同四六年六月一日、同成瀬は同年四月一日、それぞれ被告に雇用され、三萩野病院の医師として勤務し現在に至つているものであり、現在の賃金額は一カ月原告秋根が金一八一、四七五円、同佐藤が金一三一、八二五円、同成瀬が金三四五、八〇〇円、同坪井が金二〇六、〇〇五円、同河野が金一八二、一四五円、同清水が金一七五、〇〇〇円である。

3  被告は、原告秋根、同佐藤、同成瀬に対し昭和四七年二月二六日、同日を以て右原告ら三名との雇用契約を解除する旨の(以下「一次解雇」と略称する)、原告坪井、同河野、同清水に対し同年七月一三日、同日を以つて右原告坪井ら三名の出勤を停止する旨の、同年八月一〇日、同日を以つて右原告坪井ら三名との雇用契約を解除する旨の(以下「二次解雇」と略称する)各意思表示をした。

4  然しながら原告らには被告から出勤停止処分を受けたり、解雇される何らの事由はない。従つて被告の原告らに対する前記解雇及び出勤停止処分の各意思表示は無効であり、原告らは現在なお被告に対し雇用契約上の権利を有するものである。

5  原告らは、被告が経営する三萩野病院の医師として診療にあたつてきた。然るに被告は原告秋根、同佐藤、同成瀬に対し昭和四七年二月二六日以降、原告坪井、同河野、同清水に対し同年七月一四日以降それぞれ不法に実力を以つて、同原告らが右病院に立ち入り診療することを妨害している。

6  よつて、原告らは請求の趣旨記載の裁判を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実は認める。

2  同2の事実のうち、原告らがその主張の日に被告に雇傭され、三萩野病院において常勤の医師として勤務していたことは認めるが、その余は争う。

原告らの給与月額は原告秋根が金一四四、四〇〇円(昭和四七年二月分)、同成瀬が金二八四、六〇〇円(同右)、同佐藤が金一一三、三〇〇円(同右)、同坪井が金一二一、〇九二円(昭和四七年七月分)、同河野が金一〇五、二五二円(同右)、同清水が金一〇〇、五三六円(同右)である。

3  同3の事実は認める。

4  同4の事実は争う。

5  同5の事実のうち、被告が原告らの病院内への立ち入りを阻止していることは認めるが、その余は争う。

三  被告の主張(抗弁)

被告は原告らを解雇したが、その解雇理由は次のとおりである。

1  原告秋根、同佐藤、同成瀬の解雇(一次解雇)理由

(一) 解雇に至る経緯

被告財団法人小倉地区労働者医療協会は、昭和三九年一〇月、小倉地区における労働組合の地域組織である小倉地区労働組合協議会(通称小倉地区労)から基本財産の寄付を受けて設立されたもので、労働者・低所得者のための医療、社会福祉事業を行うことおよびそのために、三萩野病院を設置経営することを目的としている。

三萩野病院は、開設以来今日まで、名実ともに勤労者・低所得者のための医療機関として、これらの階層の人々に親しまれてきている。すなわち、一般の医療機関においては、かつて、生活保護者、日雇労働者等の患者等が歓迎されず、また差額ベツドの存在により、これらの階層の人々が利用するには障害があつたが、病院はこれらの患者の診療を積極的かつ良心的に行い、差額徴収なども一切しなかつた。そのため、生活保護者、日雇労働者の人々の間で親切で良心的な病院として好評を博し、入院、外来ともこれらの患者が大半を占めるに至つている。さらに、病院は昼間に勤務する労働者のために夜間診療体制を整え、不採算医療であるリハビリテーシヨンの設備を設け、無料ないしは低料金の健康診断を行い、身寄りのない重症の入院患者には病院負担で付添婦をつけ、また、入院環境と外来環境の改善につき、患者自治会等としばしば話合いをもつなど、一般の医療機関とは異つた、特色のある経営を行つてきた。他方、病院の規模と内容についていえば、開設当初は、内科・小児科を有し、許可病床が三七床程度であつたが、その後第一期、第二期の病棟建設を経て内容、規模とも充実し、昭和四二年四月には内科・小児科・外科を有するようになり、許可病床数は八四床となつた。

被告は昭和四三年八月一二日の臨時評議員会における「一、病棟建設を行う事によつて地域医療の中の立場を強化する。二、安全センターを設立して、労働災害、職業病問題に取り組む。」等の決議にもとづき、昭和四五年五月安全センターの常任者を決定し、具体的な活動に入るとともに、第三期新病棟建設計画を進めることとなつた。

この病棟建設計画は、地域住民に対し、より充実した医療を提供し、病院職員の労働条件を確保するため、老朽化した病院建物を増改築して、医療施設を拡充し、病院経営を適正規模に拡大することを目的とし、完成後は、ベツド数を一六〇ないし一七〇床、職員数を約一二〇名とし、内科、外科、小児科、整形外科をおこうというものであり、さらに、労災、職業病問題にとりくむ安全センターの活動を通じてできれば将来労働医学研究所を病院内に設置しようとの展望も含んでいた。

この計画を実現するにあたつては、医療スタツフ、とくに医師の確保が不可欠であり、被告は、前記計画の概要では、完成後一〇ないし一一名の医師を必要と考えたのであるが、三萩野病院においては、大学医学部等からの、通常の医師の供給ルートを欠いており、医師の確保はきわめて困難な状況にあつた。

しかし、被告は昭和四五年五月ごろ、たまたま、九大研修医ルーム(事実上青医連のメンバーで構成)より三萩野病院に当直医としてアルバイトに来ていた医師を通じて、右研修医ルームの就職担当者を紹介され、同人と数回接衝を重ねた結果、原告秋根、同清水、同坪井、同河野らの希望者がいるとの連絡を受け、同人らと直接交渉することとなつた。なお被告理事会においては、青医連の体質運動につき十分な知識がなく、将来の不安はあつたが、前記窓口担当者との折衝のなかで「経営には協力する。医療制度を批判する場合、批判する側の技術的主体が高まつていない場合、空疎な批判となるので技術勉強をする。地域医療を北九州の拡がりで考えているので、そのひとつのセンターとして三萩野病院の第三期病棟建設計画を好感する」との意向が表明されていたので、一応この言を信頼し前記四名の原告を採用することとし、原告秋根、同坪井、同清水は昭和四五年九月一日より、同河野は同年一〇月一日よりそれぞれ三萩野病院において内科医として、勤務することとなつた。

このようにして、まず、右四名の原告が、第三期病棟建設計画の実施に必要な医師の増員として採用された。

ところで、前記四名の原告が、三萩野病院に常勤医師として勤務するようになつて以降病院の経営収支は急速に悪化することとなる。これを病院会計における純損益の年度毎の推移においてみれば、次のとおりである。

年度               純損益(△は損失)

四三               三、八二三、〇〇〇円

四四               二、〇六一、〇〇〇円

四五                △一二八、〇〇〇円

(上半期四五・四~九)      九、三九九、〇〇〇円

(下半期四五・一〇~四六・三) △九、五二七、〇〇〇円

昭和四五年度下半期(昭和四五年一〇月一日~四六年三月三一日)には約九五〇万円の純損失を計上し、同年度上半期(昭和四五年四月一日~九月三〇日)に計上していた純利益約九四〇万円で埋め合わせてやつと昭和四五年度はほぼ収支ゼロでやつと均衡する状態となつている。

このように前記四名原告らを採用した時点を境に経営収支が極端に悪化した直接の主要な原因は、外来患者数が、延件数、実件数ともに減少し、外来診療収入が激減し医師一人あたりの患者数が、外来、入院ともに極端に減少したところにある。もちろん、医師を増員したからといつて直に、それに対応して患者数が増加するというものではなく、被告としてもある程度の短期的な経営収支の落ち込みを予測したのは当然であるが、前記のような結果は予想をはるかに上まわるものであつた。

この四五年度下半期のような収支の悪化が将来にわたつて続くとすれば、病院経営は破綻し、被告の財団法人としての財政基盤のぜい弱さからして、新病棟建設はおろか、病院の存続すら不可能となることは必至であつた。

そこで被告は、昭和四六年二月人員増をともなわない、病床増を一〇床行ない、当面の収支の改善を図るとともに、同年三月二〇日および二七日の二回にわたり医師、病院職員による全体集会をもち、病院を存続させるかどうかという深刻な議論を行つた。

その結果、職員全員による三萩野病院を存続させるとの強い意思表示があり、また前記四名の原告ら医師も、病院の経営危機打開のために協力する意思を表明し、また、「外科の充実によつて経営事情が好転するだろう。」という医師の意見もあつたので被告は、将来の収支の改善を期待して、第三期病棟建設計画を既定方針どおり進めることとし、そのための外科の充実をはかるべくさらに同年四月一日原告成瀬を、同年六月一日原告佐藤をそれぞれ採用したものである。

しかし、その後六ケ月を経過し、昭和四六年九月になつても病院の経営収支は一向に好転する気配はなかつた。例えば昭和四六年四月より九月までの六ケ月間についてみれば入院患者延日数は、一七、二〇三で前年同期の一七、三四三より減少し、各月の月末在院数の合計は五四〇で前年同期の五五八より減少し、外来患者延数は、二〇、六五〇で前年同期の二五、七三九より大巾に減少し、いずれも昭和四五年度上半期の水準を下まわつている。なおそのうち新患の件数については、一、六一九(但し後述のとおり小児科を含む)で、前年同期の一、一六五を上まわつているが、これは昭和四六年七月の医師会のいわゆる保険医総辞退のなかで、三萩野病院は保険診療を行つたため、一時期患者が集中したことによるもので、これ以外の時期についてみれば前年同期とほぼ横ばいの状態になつている。

また外科の手術例数(診料点数一〇〇点以上のもの)も三六で、前年同期の三五とほとんど変化はなかつた。

このような状態が昭和四六年度下半期においても続いたため、昭和四七年三月期(昭和四六年度)決算において、病院会計はかつてなかつた七、二一二、七〇五円もの純損失(従来どおりの引当金を計上しておれば純損失額一三、九六四、〇〇〇円となる)を計上することとなり、これは前年度までの同会計の繰越利益剰余金四、五〇七、六二七円をすべて食いつぶし、逆に二、七〇五、〇七八円の繰越欠損金を残してしまつたのである。

それに加えて、原告らは、被告がそれまで進めてきていた第三期病棟建設計画それ自体に対し、同年九月ごろから明確に反対非協力の態度を理事会に対し表明してきたのである。

もともと医師は病院の管理運営の中心であり、新病棟建設計画を実施し、前述した趣旨、目的を達成できるかどうかは、医師の協力態度にかかつていることはいうまでもなく、原告らが計画自体に協力しないという態度をとるかぎり、被告としては、いかんともしがたく、当該計画は断念せざるをえなかつた。

そこで被告理事会は、昭和四六年一〇月一三日開催された評議員会において、「病院の現状収支では、病院の存続の条件を整備することが急務であり、新病棟建設計画はいつたん断念せざるをえない。病棟建設計画の一環として行つてきた、先行投資についてはこれを整理することとし、定員については同計画に従い増員する以前の状態にもどし、先行投資として取得した土地については売却する。安全センターについては当面常任者をおいて取り組むことはできない」との内容の運営方針を提案した。なお、中西理事長は、席上右方針につき、「医師については四五年度上期の状況(内科四、外科一)の人員に減員する」との内容を含んでいる旨説明している。

そして、右理事会の提案は、医師代表の評議員として出席していた原告秋根康之を含めて全員異議なく可決された。

被告は前記評議員の決議した方針にもとづき、医師三名(内科一、外科二)を減員することとしたが、まずその方法として、希望退職を募つた。しかし、これに応ずる医師は全くいなかつた。

そこで、やむなく各医師について、一般職員との協調性、患者からの信頼度等を総合判断し、内科一名の減員として原告秋根を、外科二名の減員として原告成瀬、同佐藤を、昭和四七年二月二六日同日限りで、病院の医師として診療業務を行う旨の契約を解除するとの通告をしたものである。

(二) 原告らに対する個別的解雇理由

被告が原告秋根、同成瀬、同佐藤を解雇の対象として選んだ事情は次のとおりである。

(1) 原告秋根について

同人はきわめて粗暴な性格で、激昂しやすく、医師としての地位をかさに、一般職員を見下して威圧し、怒鳴りつけるような言動が多く、職員との協調性を全く欠いている。また、患者に接する態度がきわめて悪く、患者から全く信頼されず、しばしば苦情が出ていた。

このことは次の事実から十分認められる。

<1> 昭和四五年一一月頃検査室の主任である池永道利が検査室において、同原告に「検査技師を外に出すときは、検査室の仕事の段取りもあるから一応主任である自分に言つてもらいたい」旨言つたところ「主任とは何か」「主任なんか関係ない」「お前に一つ一つなんで言わないかんか。」と大声で怒鳴りつけ、同主任と三〇分以上にわたり口論を続けその間検査室の業務を中断させた。

もし仮に池永主任に非があつたとしても、穏やかな態度で話し合えばすむ問題であつて、検査室で大声で怒鳴つて三〇分以上も口論を続け業務を妨害する必要はない。

<2> 昭和四十六年一一月頃逆行性腸透視の際後藤X線技師が患者の体の下に汚物が出たときの掃除の都合のため、新聞紙を敷いていたところ、原告秋根は、それが気にくわなかつたのか、新聞紙をとつてあたりに、ちぎつては投げちぎつては投げして同技師に対しあてつけがましい態度をとつた。

患者の体の下に新聞紙を敷くかどうかは、医師にとつては、何ら医療上の意味をもつものではなく、単なる好みの問題にすぎない。しかし後で汚物の掃除とりをするのは、X線技師や看護婦であり、その立場からすれば新聞紙を敷くのは当然である。患者の体を現実に動かし、こぼれた造影剤を拭き取るのも、X線技師や看護婦であり医師として検査がやり難いということはありえない。原告秋根の態度は、職員の立場を全く無視した身勝手なものであることは、いうまでもない。しかも原告秋根は単に新聞紙を取り除いたというものではなく、これを何度もちぎつてあたりに投げるといういかにも人を馬鹿にした陰湿であてつけがましい態度をとつた。

<3> 昭和四十六年一一月二七日頃糖尿病患者へのインシユリン注射を、あらかじめ原告秋根より指示されていた夜勤看護婦が、たまたま同患者が食欲不振を訴え、朝食をとらなかつたのでインシユリン注射をしなかつた。看護婦らのそれまでの経験の範囲では、糖尿病患者へのインシユリン注射の指示は、患者が朝食をとることが前提であると認識しており朝食をとらないときは、インシユリン注射はしないのが常識であつた。そしてその朝、同看護婦がその旨、原告秋根に言つたところ、同原告は「医者の指示している注射をなぜしないか」「どうしてそういうことを看護婦に言う権利があるか」などと大声で怒鳴りつけ、これが看護婦の間で問題とされた。

なお、原告は、レンテインシユリンと食事との関係について医学上の主張をしているが、その真否はともかく、原告秋根において、当時そのような認識をもつていなかつたことは、後になつて自己の誤りを認めていることからして明らかであり、看護婦を頭から大声で怒鳴りつける必要はなにもないはずである。

<4> 昭和四十六年一〇月二一日被告評議員会の書記を勤めた庶務課の職員である伊藤哲を医局に連れ込み同人が「はつきり、覚えておらず自分のメモには記載がない」と主張するにもかかわらず、評議員会議事録中に記載もれの発言があつたことを認める文書に署名することを、顔色を変えて、すごみを効かせた声で執拗に迫り、さらにその間、同人が医局に連れ込まれたと聞き心配してその場にかけつけた平井医事課長を血相を変えて部屋の外に押し出し、入室させず、結局右伊藤を医局に軟禁状態にしたまま、その真意に反する文書に署名させた。

伊藤は、事務職員であり、原告秋根とは、それまでこれといつて話をする間柄でもないし評議員会においては、議事録作成については何の権限もない単なる書記にすぎず、原告秋根の行為は、職員に対する全く理不尽な威迫であることは明らかである。

<5> 昭和四五年九月頃急性肝炎による入院患者に対し「安静と栄養が治療である」と称して全く治療せず、そのため同患者は「こんな医者にはみせたくない」と立腹して二日後に退院した。

仮に右患者において安静と栄養しか有効な治療法がないというのが医学上の真理であるとしても、それを患者に誠意をもつて説明し治療方針について患者を納得させるのが医師としての勤めである。同原告は、そのごう慢な性格からこれを怠り、患者を立腹させ、信頼を失つたのである。

<6> 急患の多い小児科の外来患者に対して、小児科と聞いただけで全く診察もせず、他の病院に行けと指示したり夜間当直の際看護婦が急患が来た旨の電話連絡をすると、ため息をついたり、返事もせずに受話器を置いたりして、なかなか出て来なかつたことが、しばしばあり、こうした態度は、他の医師にはみられない特徴として看護婦らからも、問題視されていた。

<7> 昭和四六年一一月一九日三萩野病院の患者組織である患者自治会の代表者より三萩野病院に対し原告秋根について「感情的である。患者の納得をぬきにした治療を行う。病室を口笛を吹いてまわるので困る。往診に快く応じない。」との苦情が正式に申し出られた。

(2) 原告成瀬について

一般職員と好んでことを構え、トラブルが絶えずこれらの者を侮辱するような言動が多く協調性を全く欠いている。また、患者に接する態度が悪く、信頼されず、外科の業績向上には全く寄与していない。

このことは次の事実から十分認められる。

<1> 同原告は昭和四七年二月五日午前一〇時三〇分頃、第一病棟看護婦詰所にやつてきて黒水看護婦に「外科の急患のために必らず、一病室を空けておいてほしい」との相談をもちかけ、これに対し同看護婦が病室の確保の問題は、婦長の仕事であり、一看護婦としてはどうにも出来ることではなかつたので「自分で勝手にそういうことは出来ない」と言つて断つた。

すると同原告は、それから一時間にわたつて、同看護婦に対し執拗に自己の意見を繰り返して述べ続けその間同看護婦の業務を中断させ、さらに、午後二時頃再び同詰所にあらわれ、一時間ばかり同看護婦に対し午前中と同様のことを繰り返して述べて業務を中断させ仕事がたまつていたので、たまりかねて同看護婦がかかつてきた電話をとつた際思わず「先生方は余程お暇なんですね」と言つた。すると同原告は、突然立ち上り、同詰所で仕事をしていた他の二人の看護婦に向つて「今の黒水の態度はどういうことだ。どう考えるか」と興奮して怒鳴り右看護婦らは、おそれをなしてしばらく席をはずした。そこで黒水看護婦が同原告に「私の言い方が悪かつたんだつたら謝ります。」と言つたところ、同原告は「謝まることはいらん。もう勝手にしなさい。馬鹿が」と言い乍らドアが破れんばかりの激しい勢いで外に出て行つた。

<2> 同原告は昭和四六年一二月七日山本節子婦長に対し既に退職していた田口看護婦の退職理由とか外科主任の任命方法等を詰問口調で問いただした上、当時空席になつていた第一病棟主任看護婦の後任について「自分は帆足看護婦を推薦する」と述べ、これに対し同婦長が「先生が推薦するからといつて必らずしもなるとは決つておりません」と答えた。

すると同原告は「反対する奴が居つたら俺はいつでも反論してやる。」と強い口調で述べて部屋から出て行つた。

そもそも看護婦の人事に関し婦長をつかまえて自分の意見に「反対する奴が居つたら俺はいつでも反論してやる」などということ自体医師としての地位をかさに看護婦らに対しことさらことを構えた姿勢であり職員との協調性を欠く態度である。

<3> 昭和四六年六月中旬頃入院患者の手術の際主治医と執刀医との間の連絡の不手際から、同一の患者に同一の投薬をする処方箋が薬局にまわつて来たので、薬剤師が病棟にその旨伝えた。すると翌朝、突然同原告は薬局に入つて来るなり加来薬剤師に向つて頭から「加来さん、あんたは……」と興奮した口調で怒鳴りつけ、投薬袋が悪いからミスが起きたかのようなことを、大声でまくしたてたうえ、その後「薬局に文句を言つてきた」と病棟詰所で看護婦に話していた。

もともと右重複投薬はもつぱら医師の側のミスであつて薬剤師には何の責任もないことである。それをいきなり薬局に大声で怒鳴り込んで行くなどというのは、職員との協調性を云々する以前にその精神状態が疑われる。仮に同原告において再びミスが起こらない方法の一つとして薬袋を改善する必要があると考えたのならおのずから別の話し方があるはずである。

<4> 昭和四六年六月頃庶務課が職員の定期健康診断についての「通達」を出したところ同原告は庶務課にあらわれ、女子事務員に向つて「通達という言葉は官僚的でけしからん」と大声で恫喝し、同女子事務員を威怖させた。

このようなささいな言葉の問題で、わざわざ庶務課に怒鳴り込み女子事務員をつかまえて恫喝する必要がどこにあるのか、全く不可解な行動といわなければならない。

<5> 同原告の執刀した手術の際管理当直の山上繁喜がいつもより長時間の手術であつたので、手術終了後看護婦に対し「今日は長くて御苦労さんでした。」とその労をねぎらつたところ同原告は何を考えたのか「手術が下手だと言つた」といつて顔面蒼白となつて当直室に怒鳴りこんで来た。

<6> 昭和四六年一〇月二一日前記原告秋根の項で述べたとおり、同原告と共謀のうえ庶務課の伊藤職員を医局に軟禁し、文書に署名を強要した。原告成瀬は医局にかけつけた平井課長を血相を変えて外に押し出しており、右軟禁、署名の強要に加担していたことは明らかである。

<7> 同原告は夜間当直の際、心臓が悪いうえ子供が死亡したため倒れた患者を診察し、血圧測定をしたが症状について全く説明もしなかつたため患者が納得せず、翌朝説明を求めに来たことがあつた。

<8> 同原告が常勤の外科医として勤務するようになつた昭和四六年四月以降、本件一次解雇に至る昭和四七年二月までの期間をとつてみて前年の同期間と比較して外科の患者数をみると、次表のとおり増加するどころか減少に転じている。

期間

45・4~46・2

46・4~47・2

外科外来実件数

一、八八一

一、七八〇

〃 新患者実件数

三三二

三九四※

〃 再来延件数

五、〇七〇

三、八七五

〃 入院実件数

二一〇

二一九

〃 入院延件数

四、六六二

四、六二九

なお、右において新患実件数が増加しているのは、昭和四六年七月の医師会保険医総辞退のため同月に一〇一件と他の月の約三倍もの患者が三萩野病院に集中したためであり、この特殊な要因を除いてみれば、新患件数も減少していることが明白である。しかも昭和四六年四月以降右各項目について月別の件数の推移をみても昭和四七年二月に至るまでほとんど横ばいないし減少の傾向がみられる。

また手術例数は昭和四六年四月から四七年一月までの間の合計では前年同期間のそれより若干増加はしているものの(しかしこれも月平均二件足らずの増加にすぎない)月別の件数推移は増勢の傾向はみせておらず、ほとんど横ばい状態である。

従つて同原告は、外科の業績向上には全く寄与しておらず、むしろこれを低下させているものと認められる。

(3) 原告佐藤について

医師として未熟である一方勤務態度はきわめて悪い。また患者の信頼がなく昭和四六年六月常勤の外科医として勤務するようになつて以来外科の業績向上には全く寄与していない。

このことは次の事実からして明らかである。

<1> 同原告は昭和四六年九月被告理事会に対し、いわゆる「第二松寿園闘争に参加する」との理由で一ケ月間休ませてもらいたい旨申し出た。

これに対し同理事会は、有給休暇(同原告は採用初年度で年間六日間の有給休暇をとれることになつていた)をとることについては、とやかく言わないがそれ以上休むことは認められず、病院で勤務すべき旨、同原告に通告した。ところが同原告は同月一四日から二一日まで六日間(一五日は祭日で一九日は日曜日)の有給休暇をとつただけでなく同月二二日より二九日までの間に連続して六日間(二四日は祭日で二六日は日曜日)欠勤し右闘争に参加した。

このような無断欠勤、診療業務の放棄は医師として常軌を逸したものである。

<2> 昭和四六年一〇月頃同原告は手術後麻酔から完全に覚醒せず高血圧状態が続いている患者に対し血圧下降剤アポプロンの静脈注射を山本看護婦(婦長)に指示した。同婦長は右薬液の皮下注射はともかく静脈注射は全く経験したことがなく、文献を調べても静脈注射をしてよいとは書かれていなかつたので、同原告に対しその旨説明し「されるのだつたら先生がなさつて下さい。」と言つたところ同原告はにやにや笑つて同薬液の注射をしなかつた。アポプロンの静脈注射の可否に関する医学上の問題とは関係なく、同原告の診療態度が実にいいかげんなものであつたことが窺える。

<3> 同原告は、足の痛みを訴えて通院している患者に対し「痛いのは働きが足りないからだ」と言つたりまた別の患者に対しては「もう年だから死ななきやなおらない。」との暴言をはき、言われた患者は一時通院を中断したことがある。

<4> 同人が外科医として勤務するようになつて以降外科の業績向上には全く寄与していないことは、原告成瀬に関し述べたところと同様である。

(三) 解雇の根拠

同原告らに対する本件解雇は就業規則一五条二項所定の病院経営上やむを得ない事由によるものである。以下これを(1)(2)に分説すると、

(1) 整理解雇

前述した経営収支の大巾な悪化の原因は、原告らを第三期病棟建設計画実施のための医師の要員確保として採用し、医師の増員による医療内容の充実強化をはかつたにもかかわらず患者数は、実件数、延件数とも増加せず、とくに外来患者については、減少していつたこと、したがつて、医師増員による人件費の負担の増加に対し診療収入の減少ないし横ばいが続いたことにある。

この事は患者統計監査概要書が如実に物語つている。

すなわち四名の原告らが採用された直後の昭和四十五年度下半期には外来患者数は実件数、延件数ともに同年度上半期と比較して減少していることは明白である。そして、その延件数は昭和四十六年度には、昭和四十五年度よりも、さらに減少していることも、明らかである。そしてその四十六年度の実件数合計は、一〇、八四〇件と四十五年度の九、九〇三件と比較すれば増加しているようにみえるが、これは昭和四十六年七月の、いわゆる保険医総辞退の影響により、同月の、実件数が一、一七七件と通常の月より、三〇〇件以上もはね上つたことと同年四月より、パート医による小児科の診療体制を作つたため、右患者統計には昭和四十六年四月以降の小児科の患者数が含まれており、したがつてこの小児科の実件数を除けば、従来の内科、外科の実件数は昭和四十六年度もさらに減少していると考えられるのである。つまり病院では、小児科の実件数だけをとり出して統計はとつていないが昭和四十六年度の小児科の新患件数が九一九件(実件数よりも常に少い)であるから、原告らの担当している内科、外科の実件数は減少していることは明白である。

ちなみに昭和四十六年四月以降の新患件数には同じく右の小児科の新患件数が、含まれており、これを差引くと、内科、外科の新患件数も昭和四十六年度は前年度より減少しているのである。

この結果昭和四十五年度下半期以降、昭和四十六年度まで外来の診療収入が一貫して減少し診療収入全体を減少ないし横ばい状態にとどめているのである。他方その間の人件費は昭和四十四年度、六四、六八一、〇〇〇円、昭和四十五年度七八、八八七、〇〇〇円、昭和四十六年度八八、七二〇、〇〇〇円と毎年度一千万円以上の増加をみせており、そのうち給与総額に対する収入合計比が、昭和四十四年度二・六〇倍、昭和四十五年度二・三三倍四十六年度二・一一倍と大巾に減少しているのである。これが前述した病院経営収支の悪化をもたらした根本原因であること(原告らの主張するような減価償却費の増大ではなく)一見して明白である。しかも昭和四十六年春の職員の賃金引上げ(前年度の約半額)は、定昇、手当込で実費四、〇〇〇円という低額に押えられて、前記のような結果なのである。

このような経営収支の大巾な悪化が継続するかぎり病院経営自体が破綻することは見やすい道理であり、昭和四十七年三月期の正味財産が法人病院総合で三七、八〇一、〇〇〇円という被告財団法人の財産規模と他に恒常的な収益の途のほとんどない実情に照せば、同法人自体の存立をおびやかすことになるのは必至である。

そして新病棟建設により病院規模を拡大し、医療内容を充実強化することによつて収支の好転を期待することも断念を余儀なくされたのであるから、その打解策として病棟建設を見込んで、その要員確保として増員したが、前記のような経営収支の悪化をもたらす結果となつた医師数を増員前の状態に減員し、経営的収支を改善して病院の存続と経営基盤の長期的安定をはかることは、やむをえない措置というべきである。

民間医療機関においては経営が成りたたねば医療も成りたたないという現実を認めるかぎり、このことは十分肯定できる。外部からの寄附に頼つて病院経営を継続するなどというのは、およそ今日の日本の社会において現実的な話ではない。

(2) 個別解雇

仮に整理解雇の要件が満たされないとしても、前記(二)の個別的解雇理由記載の事由と原告らの新病棟計画に絶対反対の態度その他諸般の事情は、原告秋根、同成瀬、同佐藤についていずれも独自の個別的な解雇に値する事由とも評価できるものであり、これは、就業規則の一五条二項ないしは一項(8)号に該当し、この意味においても同原告らの解雇は有効である。

(3) なお同原告らの解雇が結果的にみても当を得た合理的なものであることは同解雇後の昭和四十八年度決算をみれば収入合計が前年度比で合計一、一六三万円の減少をともなつているにもかかわらず、人件費が一二五四万円減少し物件費(医薬品等の)減少と合せて六三〇万円ばかり収支が改善されており、その他の指標をみても全体として経営基盤は安定する傾向に向つていること、および同原告らの昭和四十七年二月二十七日以降の一連の病院内乱入、暴力行為にみられるような、医師としての適格性の問われる兇暴な性格からして十分これを肯定できる。

(四) 解雇の手続

被告は、昭和四七年二月二六日、解雇の意思表示と同時に、退職金の他、原告秋根に金一五万円、同成瀬に金二九万円、同佐藤に金一二万円、それぞれ三〇日分以上の平均賃金の提供をした。

2  原告坪井、同清水、同河野の解雇(二次解雇)理由

(一) 原告秋根らの「就労闘争」(病院内乱入等)への加担

(1) 原告秋根、同成瀬、同佐藤に対する解雇通告の翌日である昭和四七年二月二七日(日曜日)午後二時ごろ、原告坪井、同清水、同河野を先頭にして、そのうしろに原告秋根、同佐藤及びその支援グループ数名が続き一団となつて病院の建物出入口(職員通用門)におしかけた。そして右集団は被告理事らおよび病院職員らに向つて口々に原告らを病院内に入れろと要求し「首切りを撤回せよ」などと大声で口ぎたなく罵声をとばし、理事・職員らと押し問答を始めた。そのうち先頭部分にいた原告河野がそれまで片方の片側だけ開いていた右出入口の両開きドアの閉じてあつた側のドアの留金をはずして出入口を広げると同時に、右集団はいつせいにどつと同出入口から病院内の廊下に土足のままなだれ込みこれを制止しようとする理事、病院職員らを押しまくり管理当直室(急患の受付、電話交換、その他病院の警備保安業務を行なう部屋)の電話交換台の前まで押し込んだ。そして押し込みながら原告秋根、同佐藤、およびその支援グループは病院内乱入の制止にあたつていた被告理事らに対し罵言雑言をあびせて激しい暴力を揮つた。

たとえば原告秋根及びその支援グループ中の二、三名が病院職員三宅を出入口の外に引きづり出し、乱入集団の先頭付近にいた者が、病院職員らに対し横腹を小突く、向う脛を足でけり上げる、胸倉をつかんで引つ張る、頭髪をつかんで引張ろうとする等の暴行を加えた。さらにその混乱の中で転倒させられ廊下の床にうづくまつている被告理事長中西に対し、その腰付近を数回にわたり踏みつけけりつけるという破廉恥きわまる悪質な暴行を加えた。とくに原告佐藤は、その際三回にわたつて膝を腰付近の高さまで振り上げ、床に倒れている右中西理事長の腰部を力いつぱい踏みつけている。この暴行により同理事長は加療一〇日間を要する腰部挫傷の傷害を負つた。また右乱入集団の一員である古川は、病院職員三鼓に対し左手をつかんでねじあげる暴行を加え、これにより同人に対し加療五日間を要する左手首捻挫の傷害を負わせた。

その後、病院側からの連絡により、警察官がかけつけてからは、激しい暴力はおさまつたが、なおも理事らの退去要求を無視して、乱入グループは、院内から退去せず、口々に大声を張り上げて、理事らの悪口雑言をとばし続けた。そして乱入グループの一員である伊藤は医事課前の廊下の長椅子の上に上がつて、「浅間山荘の国民的英雄に続け」(いわゆる「連合赤軍」の浅間山荘事件のこと)とか「三萩野病院を革命の拠点にする」などという演説を長々と続け、手を振つて同課の窓ガラスを叩き破つた。またそのころも原告佐藤は、前記三鼓職員に対し、土足でその左大腿部に飛びけりを加えるという兇暴性を発揮している。

こうして、右乱入グループは午後三時四〇分ごろようやく引揚げて行つた。

翌二月二八日午前八時五〇分ごろ、原告坪井、同河野、同清水を先頭にして、そのうしろに原告秋根、同佐藤および前日と同様の支援グループが続き一団となつて、職員通用門(建物出入口)の前におしかけた。その時病院側では前日と同様の乱入事件が発生することを予想して、同出入口のドアを内側から鍵をかけていたのであるが、病院の勤務医師である三名の原告らが先頭になつてドアを開けるよう求めたので、同原告らだけを病院内に入れるためやむなくドアを開いたところ、同原告らを先頭に、原告秋根、同佐藤、および支援グループまで出入口から入り込みしばらくの間一団となつて制止する職員らを押しまくり、被告理事が原告坪井、同河野、同清水に対し、診療時間が過ぎた旨告げると、同原告らは、病院内に入ろうとしたが、これに続いて支援グループらも中に入ろうと押し込んでくる状態であつた。そして同原告らが、その場より立去つた後も、午前一〇時三〇分ごろまで押し合いが続いた。

同日午後一時三〇分(午後の診療時間開始時)ごろになると再び原告坪井、同河野、同清水を先頭に午前中と同様のグループが一団となつて職員通用門におしかけ、同原告ら以外の集団の乱入を制止しようとする職員らを押しまくつた。そして、この時は職員らは病院内の電話交換台の前付近まで押し込まれ、原告秋根は、病院の二階の看護婦詰所にまた同成瀬、同佐藤は第一病棟詰所まで入り込み、支援グループの仰木、伊藤、古川らは待合室まで入り込み、ビラを配つたりした。そして、原告秋根は、職員通用門から乱入しようとして職員らに制止されている時携帯マイクを持ち、スピーカーのボリユームを上げて二〇分間にわたりわめきたてた。

そして翌二月二九日以降は、三月七日福岡地方裁判所小倉支部の原告秋根、同佐藤、同成瀬に対する病院敷地内への立入禁止仮処分命令が発せられた後もなお、三月二〇日ごろまでの間日曜日を除き連日、午前と午後病院の診療開始時刻に合わせて、原告秋根、同佐藤、同成瀬及び支援グループは、病院に押しかけ、職員通用門から病院内に乱入しようとし、これを制止する病院職員らともみ合い、被告理事、病院職員らに対し、罵言雑言をあびせるという混乱状態が続いたのであるが、その際、原告坪井、同河野、同清水は、毎回必ずといつてよいほど三名そろつて病院内に乱入しようとするグループの先頭に立ち、これと一団となつて被告理事らが診療業務につくよう指示するまで同グループと行動を共にし、また右乱入グループに対する病院職員の制止を妨害した。そしてその間の二月二九日午前九時ごろ原告秋根と支援グループの伊藤は、職員通用門から乱入しようとして職員らによつて制止されている集団から一時離れて病院正面玄関にまわり、「開けろ、開けろ」と大声で叫びながら、同玄関のガラス戸を強く叩き、右ガラスを破つてこれを開き、病院内に乱入したり、同日ごろ原告佐藤らが、病院内の待合室に入り込み携帯マイクを用いて大声で演説したりした。

また、三月一三日原告佐藤が公務執行妨害罪の現行犯で警察官に逮捕されて連行される際、原告清水は病院内から白衣のまま飛び出し、警察官に対し、体当りを加え、殴る蹴るの暴行を加えている。

(2) 原告らの責任

こうした一連の集団的な病院内乱入と暴力行為等(原告らはこれを「就労闘争」と称しているのであるが)は、二月二七日被告理事長名で出された立入禁止の告示はもちろん、三月七日に発せられた前記仮処分命令を無視した不法なものであることはもちろん、職員通用門から集団で乱入しようとし、これを制止する病院職員らともみ合い、大声をあげること一つをとつてみても、本来診療の場として常に静穏を保つことが不可欠な病院の秩序を著しく侵害し、患者及びその診療業務に携わる病院職員に多大の不安動揺を与え、病院の業務をはなはだしく阻害するものであることはいうまでもない。こうした行動を連日にわたり、間断なく続けること自体、医療そのものに対する敵対破壊であるといつても過言ではない。

これは「良心的医療」を云々する以前の原告らの医師としての適格性が疑われる行為である。

原告らはこうした混乱状態は原告らとは無関係であると主張するが、全くしらじらしい詭弁である。

前記一連の病院内への乱入は、連日毎回にわたつて原告坪井、同河野、同清水が先頭になり後方にその余の原告らと支援グループが続き、一団となつて職員通用門に押しかけるところから始まつており、それ自体あらかじめ、相互に意を通じたうえでの組織的計画的行動であることは明らかであつて、しかも前者の三名の原告は理事らが診療業務につくよう命令するまで、乱入集団の先頭に位置して、病院側職員らと対峙し、その職員らが後続部分の乱入を制止することを妨害しているのであるから、同原告らは、乱入グループと共謀のうえ、その病院内への侵入を先導し、援助し、病院側の自衛措置としての排除、制止を困難にするというきわめて悪質、陰険な役割を果しているのである。ちなみに当時、池永事務部長が原告坪井に対し、「秋根、佐藤、成瀬については、仮処分の申請をしているのだから、その解雇の当否については法廷で争い、病院内では、患者や看護婦もいることだし、荒つぽいことはやめようじやあないか」と要請したところ、同原告は「裁判なんてまやかしであんなもので救われるとは思つていない。だから現地で実力闘争をやるんだ。」と答えて、右要請をはねつけている。

(3) 二月二七日の柏木氏の診察、輸血について

原告側は、「二月二七日原告坪井が主治医となつていた患者の柏木氏が大量に下血したとの連絡が病院からあり、同原告が緊急外科手術の必要も考えられるため原告佐藤を同行して病院にかけつけたところ、ピケ要員に阻止され原告佐藤と一緒には入れないとの理由で阻止され原告坪井のみしか院内立入りが認められなかつたので、この患者無視の行動にいきどおりを感じ抗議した原告河野、同清水、同秋根、同成瀬らと右ピケとの間でもみ合いがあつたまでである」と主張する。

このような弁解をすること自体原告らの解雇理由を自白しているに等しい。

すなわち、当日病院の方から原告坪井に柏木氏の容態急変の連絡をした事実はなく、連絡があつたとすれば、それは同原告の方から病院内の誰かに症状を問い合わせたことしかありえない。そして、当日の柏木氏の症状がわざわざ同原告が病院にかけつけるほどのものであつたかどうか疑わしいのであるが、その点はともかくとして緊急外科手術の必要も考えられたから原告佐藤を同行したなどという言い分は、それ自体病院内乱入の口実にすぎないことを物語つている。なぜなら、同日(休日)は外科の小野医師が当直であり、病院内にいたのであり、原告佐藤を連れてくる必要など全くないのであるから休日に容態急変の知らせを受け、病院にかけつけたというのであるから、この日の当直医が誰かを医師たる同原告が知らなかつたという弁解は成立しない。それをわざわざ原告佐藤だけでなくその余の原告らと外部支援グループまで引き連れ、二十名ばかりが一団となつて職員通用門に殺到する理由をなんと説明するのであろうか。真に、患者の容態急変を心配してかけつけるのなら一人で真先きに患者のところに飛んでいくのが当然であり、混乱が起こることがわかりきつている解雇医師らや支援グループと行動を共にし、原告佐藤を病院内に入れることにこだわるひまはないはずである。むしろあらかじめ解雇医師や支援グループ集団から避けたうえ、穏かに来院した理由を病院職員理事らに伝え、すみやかに患者のところに行くのが医師としての責務というものである。要するに原告らはあらかじめ、しめしあわせたうえ、医師としての権威を悪用し、患者をだしに使つて病院内への集団的・暴力的・乱入を組織したものにほかならず医師として最も恥ずべき行為であり、その責任は重大である。

被告理事、病院職員らは、原告らが支援グループと共に一団となつて職員通用門に押しかけてきたので、いつたんこれを阻止したうえ、原告坪井の言を聞き、同原告を病院内に入れ、その他の者の乱入を認めなかつたのであり、きわめて当然の措置である。

(4) その他

なお、原告側は「二月二八日以降原告坪井、同河野、同清水が毎朝出勤時に職員通用門ピケ隊の間をぬつて院内に入らなければならない異常な状態が続いた」などと主張するがおよそ反論のかぎりではない。

異常な状態にしたのは原告らである。病院職員の誰が好き好んで毎朝、毎昼わざわざ出入口に待機しピケを張つて、同原告らを迎える者がいるというのか、理事職員らの労苦を考えてみるがよい。

さらに原告側は、病院側職員が原告らに対し暴力を振つたかのような主張をしているが、全く事実無根である。

また原告側は、被告側が原告秋根、同成瀬、同佐藤の解雇の際、患者引き継ぎをさせなかつたと主張しているが、事実は全く逆である。二月二六日中西理事長が、他の理事同席のうえ、同原告ら(但し成瀬は二八日)に対し、同日限りで解雇すべきことを通告する際、外科の原告佐藤は小野医師に、内科の原告秋根は福山院長に、それぞれ引き継ぎをするよう指示しており、これに対し、同原告らは、引き継ぎを全くしないまま病院外に立ち去つたものである。そしてその後引き継ぎを申し出て病院内に立入を求めた原告は誰もいない。被告の措置によつて患者が死亡したなどの例をあげる原告の主張は、名誉棄損に値する悪質なデマ、中傷である。

(二) 無届早退・欠勤

原告河野、同清水はいずれも昭和四七年五月一三日午後一時より無届で勤務を欠き業務を放棄し、病院外の集会に参加し、原告清水、同河野、同坪井は同月二二日、二三日、二四日にそれぞれ無届欠勤をし、久留米市の三西化学工場による農薬公害の集団検診に参加した。そしていずれも院長に対する口頭による届出もなく同原告らの勝手な判断で病院勤務を放棄したものである。ことに右五月二二日以降の同原告らの無届欠勤は、同月一三日の原告河野、同清水の無届早退についての理事長の文書による同月一六日付の警告の直後にこれを無視して行なわれたもので、理事会と病院の管理体制に対する重大な挑戦であつて情状はきわめて悪質である。

原告側は、当時医師については、欠勤早退届を出すことはなされていなかつたとして、このことが取るに足りないことであるかのように主張するが、仮にそのように勤怠手続が医師についてはルーズであつたとしてもそれはもともと医師の勤務態度について、高度の信頼がおかれていることからくるものであつて被告が右原告らの勤務態度に関し信頼をなくし警告まで発した直後に、あえて再び無届欠勤を行ない、院長に対する口頭の連絡すらしないなどというのは医師として重大な任務懈怠であることに変りはない。

また原告らは、久留米市の農薬被害の集団検診に参加することにつき、地区労病院のたてまえとして、この種の検診に出席することは当然と考えていたから、残りの二医師(原告ら)に院内の診療は十分依頼して行つたと主張するが、およそ被告に雇傭された労働者としての権利保護を求めておりながら、かかる主張をすること自体厚顔にして矛盾撞着した主張という外はない。

(三) 診療拒否、当直拒否

原告坪井、同河野、同清水らは、昭和四七年三月一四日以後六月一六日までの間、既に解雇されている原告秋根、同成瀬、同佐藤を含めた当直表を作成しこれに基き当直勤務を行い被告理事会と病院長が作成した当直表に基き当直勤務を行うことを拒否し、更に同月十七日以降、同年七月一二日までの間、あらかじめ命じられていた当直勤務を全面的に拒否し、原告清水は三月六日、同河野は同月二九日にも、それぞれ、あらかじめ命じられていた当直勤務を拒否し、原告坪井、同清水、同河野は、昭和四七年三月二七日より同月二九日迄の三日間、いずれも外来診療を拒否し、もつて医師としての勤務を放棄した。

原告らは、原告ら医師には当直勤務をすべき義務がないこと及び六月十七日以降の全面当直拒否は正当な争議行為であると主張するが、全く理由がない。

(1) 原告らの当直義務について

医療法一六条は病院管理者の義務として規定したもので、個々の勤務医師に当直義務を課したものではないことは、原告主張のとおりである。しかし医師が病院開設者と、常勤医師としての雇傭契約を結ぶということは、医師が、病院内では、その専門的知識と能力に基き患者に対する診療につき全面的に責任を持つということであり、かつ病院では、医師の当直は必らずあることが常識であるから契約締結の際、当直をしないとの特別の合意がないかぎり勤務医師は当直をすべき契約上の義務を負うというべきである。本件において被告が原告らを常勤医師として採用する際、当直をしないという特段の合意はなく現に原告らは、採用以来、前記当直拒否をする迄、当直勤務を継続的にしているのであるからその義務がある。原告らの主張のとおり、就業規則が原告ら医師にも適用されるものとすれば、同規則四二条~四四条によつても、当直義務を負うことは、一層明白である。なお三萩野病院の医師その他の職員の当直は労働基準法施行規則二三条の許可を受けた宿直日直勤務であり(現実にも定期的な労働基準監督署の立入検査のなかで是正勧告を受けた事項にも含まれたことはない)労働基準法三二条は適用されない。従つて原告らの当直拒否は単なる超勤拒否ではなく業務命令に違反する勤務放棄である。

(2) 当直拒否の争議行為としての正当性

およそ人の生命健康に直接危険をもたらす態様の争議行為は、それ自体正当性を欠くことは言うまでもない。憲法二八条の保障する労働基本権を制約しうる根拠と限界に関しては争いのあるところであるが、少なくとも争議権につき右のような内在的制約があることは、誰しも承認するところである。労働関係調整法三六条が工場、事業場の安全保持施設の正常な維持運行を停廃し又は、これを妨げる争議行為を禁止しているのは、趣旨に基くものである。ところで、医師が争議行為をする例は、あまり聞いたことはないし、その限界が法律上の問題として論ぜられることもないが、前述した制約からして次のことがいえる。即ち、病院というものは、それ自体が人の生命健康を保持するための施設であり工場事業場の保安施設と同じである。その中心をなす業務は医師の診療行為である。

医師が病院において診療を必要とする患者がいるにもかかわらず組織的・集団的に所定の診療業務に就かずこれを阻害する争議行為は外来患者に対するものであれ入院患者に対するものであれ、直接人の生命健康に危険をもたらすものであつて、原則として正当性を欠く。医師の診療業務の放棄という形態の争議行為が正当性をもちうる余地があるとすれば、それは、理論的には、あらかじめ使用者に対して代替医師の手配準備をなしうる機会を与える為、予告をするか、或いは事前の使用者との間で保安協定を結び、かつ、こうした事前の措置によつて病院の診療業務が、阻害されることがない場合であろう。これでは医師は実質的に有効な争議行為を正当に行いうる余地は殆んどないことになるかも知れないが、人の生命健康の保持という職責上、やむをえない事である。原告らの行つた前記六月一七日以降の当直拒否について言えば、これは到底争議行為としての正当性を主張しうるものではない。

原告らは昭和四七年三月一四日以降から六月一六日までの間、当時既に解雇され病院敷地内への立入禁止仮処分命令の発せられていた原告秋根、同成瀬、同佐藤を含めた七名の医師の当直表を院長に提出したうえ、理事長、院長による再三にわたる当直の命令を無視して同当直表に基く、当直勤務にしか応じなかつたため、その間の九四日間に福山院長は通算三八日間という当直勤務を強いられていた。

そして六月一七日からの全面当直拒否は約一ケ月間も続けられ、その間福山院長は殆んど連日当直勤務を強いられたのである。

このような院長の当直勤務の連続はもはや、肉体的精神的限界を越えており、原告らの当直拒否は、病院内の診療体制の維持を困難とし患者の生命・健康を危険に陥れるものであることは、明らかである。

しかも原告らは、その当直拒否の代替として、被告が応援を依頼したパートの当直医に対してはこれを認めるどころか三萩野院院に当直医として来る事を断念させるため再三にわたり、その私宅にまで押しかけて脅迫し近隣に誹謗中傷のビラ貼り、ニユースカー宣伝を行つたり、脅迫電話をかけるなど、徹底した嫌がらせを行い、被告による当直医の確保を困難にしたのである。

こうした行動はすべて、原告ら「三萩野病院医師労働組合」と称するグループと前述した病院内乱入の際の支援グループが一体となつて組織的に行われたものである。このような常軌を逸したやり方は、病院の患者に対する責任ある診療体制を破壊するとともに福山院長個人を精神的肉体的にまいらせて、自己の要求を貫徹しようとするもので、その悪質陰険さは、およそ労働者の争議行為に値しない。

そもそもこのような行為は、憲法二八条の保障の埓外で、争議権の濫用であり正当性を欠くことに疑問の余地はない。尚、原告らは被告の医師労働組合との交渉拒否を云々しているが昭和四七年四月七日「医師労働組合委員長清水正法」の名による交渉申入れを受けた被告理事会は、「医師労働組合」なるものとの交渉となれば、結局原告ら全員が交渉の席に出て来る事となり二月二七日以降の原告秋根、同佐藤、同成瀬及び支援グループの病院乱入と集団暴力の経過(理事長自身が原告佐藤より足蹴りにされるなど)からして到底正常な話し合は期待できず不測の事態も起りかねないとの判断から場所を病院内として原告坪井、同河野、同清水となら話し合うと返答したのであつて交渉自体を拒否した訳ではない。原告らがこの条件を受け入れなかつたため交渉は行われなかつたのである。

仮に「医師労働組合」を労働組合の実体を有するものとすれば、右理事会の返答は、単に交渉の場所と出席者を指定したものでありこの指定は決して不当なものではないのであるから理事会の不当な交渉拒否というのはあたらない。従つて被告の不当な団交拒否があつたとの理由で前記のような「争議行為」を正当化することは出来ない。

原告らは、前記三月二七日から二九日までの外来診療拒否につきこれを正当な争議行為と主張しているのかどうか明確でないが、この三日間の外来診療拒否がそのように評価できないこともまた明らかである。

この外来診療拒否は、その前日に至るまで被告に通告すらなされず、突然行われたものであり(もちろん労調法上の事前手続などは前記当直拒否と同様、経ていない)、被告としては、代替医師を手配して外来診療体制を確保することなど全く不可能であつた。

しかも事前に交渉申入れもなければ要求もなく争議権濫用の典型である。これにより病院の機能と信用は著しく侵害されたことは言うまでもない。

(四) 結論(解雇の根拠)

以上(一)ないし(三)の何れか一つをとつてみても、就業規則十五条一項(8)号所定の従業員を解職するに足る重大な事由ないし同条二項所定の病院の経営上やむを得ない事由があるときに該当することは明らかであり原告坪井、同河野、同清水に対する解雇は有効である。

四  被告の主張に対する認否

1  同1(一)の事実(解雇に至る経緯)につき

(一) (1) 三萩野病院の設立の経過、その規模、および生活保護者、日雇労働者が患者の大半を占めていることは認めるが、身寄りのない重症の入院患者には費用を病院負担で付添婦をつけていることは知らない。

(2) 第三期病棟建設計画と安全センターの設置計画が存在したことは認める。しかし原告らは右病棟建設計画のため先行投資的に雇われたわけではない。

なお、原告ら六名のうち、坪井、成瀬は青医連に加入したことはないし、佐藤は雇傭時には加入していなかつた。

(3) 経営収支が決算書類上昭和四五年度以降赤字となつていることは認めるが、同四六年度の引当金不計上については知らない。

昭和四五年度、四六年度の経営収支の悪化は、原告らが通院間隔を広げたための外来患者数の減少と投薬注射を減少したことによる診療収入のある程度の減少が一因をなしているかも知れないが、しかしこれは医師の良心に基づく真の医療によるものであつて、やむをえないと言うべきである。

しかも、右は赤字の一因にすぎないのであつて、右赤字の真の原因はやはり病院経営のまずさにあつた。

(二) 以下解雇に至る経過を詳述するに、まず、原告らが三萩野病院に就職したいきさつについて、一般に医師は就職先の病院を選ぶにあたり二つの点に留意する。

一つは給料であり、今一つはその病院が研究ないし、学問的関心を満足させる症例、設備があるかどうかである。

学問研究に都合の良い大学病院、大都市の大病院は給料が低く、逆に勉強するに不便な僻地の病院や、私立の中小個人病院では給料が高い。

三萩野病院はそのどちらかと云うに、後者にあたる。しかし、原告らは給料目あてで就職したのでもない。では原告らは、何故三萩野病院に就職したのか。

被告小倉地区労働者医療協会寄付行為六条によれば、被告は、三萩野病院の経理運営と並んで、労働災害、職業病の調査研究、生活と健康の為の無料相談事業、疾病者への救済事業、災害地住民の為の諸活動等、地域医療活動と呼ぶべき内容の事業を行う事が定められている。

しかし、昭和四五年秋、理事会で作成された文書によれば『京都南病院、塩釜坂病院に比し、三萩野病院は次の点で著しい立遅れがあつた。

<1> 地域医療活動への取組み

<2> 医師の不足

<3> 生活保護層への依存度の高さ

特に、<2>の医師数の不足は、院外諸活動への事実上の最大の障害であつた。』

更に『常勤医の確保は前記欠陥の最大の是正である』と記され、努力目標として

『<1> 医療水準のより向上

<2> 地域医療活動への取組み』があげられている。

即ち、昭和四五年秋、三萩野病院理事会は寄付行為六条にのつとり、院外の地域医療活動と医療水準の向上を目指し、常勤医を求めていた。

この「あるべき三萩野病院に、今の三萩野病院を創り変えたい」という要望を満たす医師を三萩野病院の理事会がさがしているという事を当時三萩野病院でアルバイトをしていた鎌谷という医師から聞き、ここに原告等の、三萩野病院への就職の話が具体化したのである。

では、三萩野病院に就職する事が、原告等にどんな意義をもたらすのか。自己の在職する病院が、種々の地域医療活動をすすめる事によつて、又原告等自身が、地域医療活動に直接参加する事によつてより多くの価値感を持つた、より沢山の人々との交流が原告等に可能となり、その体験を大切にしつつ、日常の診療ひいては日本の医学医療の改革に向けての一つの提案を原告等は為し得ると、原告等は就職にあたつて考えたのである。

幸い、三萩野病院の運営の最高責任者である理事達は、小倉の労働組合の幹部の人々であるので、例えば労働災害、職業病等の調査研究に際しては好都合だと考えられる。

四五年夏から秋にかけ、中西理事長、原理事、池永事務部長と、数回におよぶ親密なる話し合いを持つなかで、原告等の就職を理事会が望み、又原告等も三萩野病院に就職する事が意義深く思われ原告等の就職が決定した訳である。

しかし、その中西理事長、原理事、池永事務部長との話し合いでは一般論が話され、地域医療活動を具体的にどうすすめるのか等は話されなかつた。

原告等は新病棟建設計画が具体化しつつある事を理事長から聞かされたので理事長に「原告等を新病棟要員として雇用するのではないか」と問いただした所、理事長は「新病棟が建つた段階で新たに増員する」旨返答があつたのである。すなわち、原告等は新病棟建設計画の要員として雇用されたのではない。

又、本件解雇の争点になつている経営の問題については「原告等の雇用は決して経営的にはプラスにならない」旨述べた。

原告等は、学生時分より、政府の低医療費政策の為、病院の経営が苦しいという事をよく承知していたからである。この点について、池永事務部長は「日本の医療の実状は高医療費政策で、むしろ三萩野病院はもうけすぎてこまる。」とまでいい出す程であつた。

就職にあたつて具体的にきめた事といえば、給料は一〇万円程度、週に一度大学病院に研修に行かせて欲しいという事、秋根、河野、清水、坪井の四人を組で採用して欲しいという事であつた。

この組で採用して欲しいという事は、同じ内科学を専攻しているとは云え、各自が得意とする分野が違うので、診療上相談できる同僚が欲しかつたからである。

特に、院外の地域医療活動に参加するとすれば一層互いに助けあえる友人が必要となると考えられたのである。原告成瀬と佐藤については就職のいきさつが少し異る。

昭和四五年原告秋根等の就職する頃、三萩野病院の外科が極めて不充分なものであつた事は、前記理事会作成の文書に記されている通りであるし、又、原告秋根等が実際三萩野病院で診療を行うようになつてからも外科体制の確立は痛感されたのである。

例えば四五年一〇月頃、胃穿孔の患者が来院し、外科は小野医師一人のみということで緊急手術が受けられず、わざわざ八幡区の厚生年金病院まで転院しなければならなくなり、その患者は結局不幸な転帰をとつたという事が起きたのである。

中西理事長、浜田理事、池永事務部長等と原告秋根・坪井等が、当時県立遠賀病院外科部長であつた成瀬に、三萩野病院に就職する様説得に努め、四六年四月成瀬博之の就職が実現したのである。なお、佐藤は遠賀病院で、成瀬博之の下で勉強中であつたが、四六年六月三萩野病院に就職したのである。

(三) 原告らが三萩野病院で診療するようになつて以降、患者数が激減したとの点は否認する。

(1) 患者数の推移

昭和四二年以降の患者数、及び通院日数を次表に示す。

患者数は昭和四二年を一〇〇とした趨勢比であり、通院日数は実数である。但し、昭和四六年度については、同年四月より八月までの実績を基にした推定数値である。

四―一五表、患者数、及び通院日数。

昭四二

昭四三

昭四四

昭四五

昭四六

上期 下期

外来延件数

一〇〇

九九

九七

八一

七〇

四六 三五

外来実件数

一〇〇

九五

九一

八二

八七

四二 四〇

通院日数

四・七

四・九

五・〇

四・七

三・七

五・二 四・一

入院延件数

一〇〇

一〇一

一〇一

一一〇

一一六

五六 五四

入院実件数

一〇〇

一〇五

一〇三

一一五

一二四

五六 五九

原告等が三萩野病院に就職したのは、昭和四五年九月以降であるので、昭和四五年下期以降に原告等は関与している。

昭和四二年以降、外来患者は延数、実数ともに漸減傾向にある。外来延件数は昭和四五年下期以降著減している。

ところが、実件数は、昭和四五年上期に比べ、下期はやや減少したが、昭和四六年度は逆に増加している。

なお、実件数とは、一ケ月間に通院した実際の患者数である。一人の患者が、一ケ月間に二五回通院しても一人と数える。これに反し、延件数は一人の患者が二五回通院すれば二五人と数える。であるとすれば、患者数が減つたとして医師の責を仮に問えるとすれば、患者実数の減少をもつてしなければならない。なぜなら、一人の患者が何回通院するかで、延件数は大巾に変わつてくるからである。

ところで原告等が三萩野病院に関与して以降、延件数は確かに著減しているが、実件数は増加していることは前に述べた。

被告は、延件数の減少をもつて、原告等の医師としての責を問うているが、このことは、二重、三重の意味で不合理であろう。

原告等が三萩野病院に就職以来、実件数はやや増加し、延件数が減少したが、これの最大の原因は、通院日数が減少したことである。昭和四四年の一人平均一ケ月間の通院日数五・〇日から昭和四六年では三・七日となつている。

通院日数は、患者の病気が、新患者の場合は早く治れば短かいし、難治であれば長い。又、長期、慢性の患者であれば、その病院の投薬日数で規定される通院間隔で決められる。つまり、一人の患者に、四日間隔で投薬すれば延件数は七・五人/月となり、七日間隔で投薬すれば四・三人/月となる。

ところで、三萩野病院の外来患者とくに、実件数は、昭和四二年以降漸減傾向を示している。しかし、延件数については、漸減傾向を示すが、その巾は小さい。このことに関して同病院の池永弘充事務部長は、次の如く述べている。

「実件数の減少に係らず、延件数の減少が殆んどないのは、投薬日数の短縮によるものである。四二年の医療費改訂時に再診料が設けられ、それまで七日投薬であつたものを、四日投薬に切り換えた事が最大の理由であろう。」

以上に示される如く、三萩野病院に於いては、経営的配慮から延件数が水増しされていたのであるが、原告等は、このような経営的配慮から無用に患者に来診させることを避け、七日投薬で良い患者に対しては、従来の四日投薬を七日投薬とした。これに加えて、病気の性質、薬の効果から考えて、毎日は必要ではない注射を打ちに来ていた患者の注射を止めていつた。このことが、延外来患者の著減をもたらし、被告が言う患者数の減少ということになるのである。

(2) 外来患者の漸減傾向について

原告等の三萩野病院就職は昭和四五年以降であるが、それとは無関係に昭和四二年以降の外来患者の延件数、実件数の減少傾向があることは前述した。この原因について、池永弘充事務部長は次の如く述べている。

「外来生保は六五・六%から五六・九%に下がつているが、入院患者は六七%、六五%と殆んど動いていない。生保患者が極めて多いのは一つの特徴であり、又、問題点でもあるが、この生保層が谷市政になつて著るしく整理の対象とされた。それが、外来(軽症者)に集中的に表われている訳である。」

三萩野病院には、生活保護の患者が非常に多い。従つて、市政の方針として、生活保護が縮少されれば、三萩野病院の患者数は減少する。そこで、北九州市民生局発行の「民生事業概要、一九七二」より北九州市における生活保護人員の昭和四一年を一〇〇とする推移を示す。

四―一六表、北九州市の生活保護人員の推移

昭四一

昭四二

昭四三

昭四四

昭四五

昭四六

一〇〇

一〇〇・四

八七・四

七五・一

六七・〇

六〇・五

右表に示される如く、北九州市における生活保護人員の減少は著るしく、その影響は、生保患者が六割以上を占める三萩野病院の患者数に反映せざるを得ない。

この三萩野病院の外来患者の漸減傾向の中で、原告等が関与している昭和四六年度の患者実数はむしろ増えている。このことは、被告の「医者が悪いから患者が減り、経営悪化した」とする非難がまつたく根拠がないことを示している。

(3) 新患、入院患者の増加について

被告は原告等の為に患者が減少したと主張するけれども三萩野病院における入院患者数の推移を見ると四―一五表に示される如く原告等の就職以降も増加している。

又、新患者数も、昭和四二年を一〇〇とした趨勢比で示すと四―一七表の如くなる。

四―一七表、新患者数の推移

昭四二

昭四三

昭四四

昭四五

昭四六

一〇〇

九四

一〇六

一一〇

一二三

原告等の三萩野病院就職は昭和四五年九月以降であるが、それ以降むしろ増加している。

このことは、「患者が医者を見放した」とする非難には、根拠がないことを示している。

(四) 原告らは、三萩野病院に就職して、院内医療に関しいくつかの改革をなし、その一つとして、薬・注射の使用については科学的根拠に基づいて使用するよう改善した。その結果として薬・注射の使用量は減少し、診療収入も減少したであろうから、ここで、薬・注射に対する原告らの考え方を明らかにしておくこととする。

原告らが就職した当時、三萩野病院の外来診療では、医師の診察もなく、薬や注射が漫然と患者に投与されておつたり、又医師が処方箋を書かない等、ゆるみきつた薬・注射の使用が行なわれていた。

原告らは、いくつかの院内医療改革のなかでも、一番苦心したのが、薬・注射使用に関してである。

薬というものが、本質的には毒であるという事は、医学を修めたものならだれでも承知していることである。

最近、新聞で大きく報道されている大腿四頭筋短縮症という病気は、乳幼児期、大腿前面に注射され、その部位の筋肉が変性する為生じる病気で、患児は歩行障害、正座不能に苦しめられている。しかも、治療法は確立されていない。この大腿四頭筋短縮症の患児は、全国で数万、数十万にも達するであろうと、昭和四九年八月二〇日の朝日新聞は報じている。

昭和四九年八月二五日、大腿四頭筋短縮症九州調査医師団が戸畑で施行した検診では、五七四名の多数が検診を受け、うち一二一名もの確定患者が発見されている。

大腿四頭筋短縮症は、薬が本質的に毒である事の好例であるが、他に、整腸剤キノホルムによるスモン病、冠拡張剤コラルジルによる肝臓障害、腎臓薬キドラによる失明、睡眠薬サリドマイドによる、サリドマイド児等多くの薬による犠牲者がでているのである。

臨床医学にたずさわり、恐ろしい薬の害作用を知つている医師は、このような痛ましい犠牲者が出ない様、最大限の努力をせねばならない事は云うまでもない。

しかし、日本の医療現場は、いつこの痛ましい犠牲者がでても不思議でない程、危険な状態に久しくおかれているのである。

一般に、日本の各種医療機関の薬・注射の使用に関して、基本的に二つの問題点がある。

一つは、使用されている薬・注射の薬効検定が非科学的である事である。

第二の点は、各種医療機関が、収益をあげる手段として、科学的根拠を無視して、薬・注射を乱用している事である。

病院が患者から診療費を徴収できる項目は、診察料・処方料・投薬料・注射料・検査料・手術料・処置料・入院料等である。各種医療機関に、より多くの収入を保証する項目は上記のうちどれかというに、まず、診察料・入院料は病院に経営上のメリツトをもたらさない。しかし、投薬・注射を多くすることは病院の経営上極めて有利である。

今、仮に一錠の錠剤又は一本の注射を患者に投与した場合、病院はいかなる利益を得るかと云うに

<1> 処方料・調剤料・注射手技料等・投薬・注射にともなう技術料。

しかるに、薬価基準に定めた、患者が支払う薬代と仕入値に差がある為、

<2> 薬価基準に定められた点数―その薬の仕入値、もしその錠剤が添付であれば仕入値は〇である。(添付制度は今なお続いておる。)

即ち病院は、<1>+<2>がもうけとなる。

さて、投薬・注射によつて収入を増そうとする際、設備もスタツフも必要としない。

特に<2>の過程でもうける分は全く人手も設備もいらず自動的とすら云える。

更に、国民総健保制下では、患者が病院の窓口で支払うべき金額は少い(健保家族五割・国保三割・健保本人ほとんど〇・生保〇)ので、投薬・注射を増しても直接には患者のふところにはひびかない。従つて薬・注射の乱用は歯どめがない状態となつている。

以上第一・第二の問題点が重なり、医療費のうち多額が薬剤費に占められている。

ここに日本人は、薬漬けの民族と化し、冒頭に述べた痛ましい犠牲者が続出しているのである。

原告等は、臨床医学にたずさわる者であるから、薬が本質的に毒であるからという理由で薬を全く使用しないという事はできない。患者の容態と薬の効果・副作用を按配して、つまり最小有効量で病気を治していく事に腐心しなければならない。

臨床医学の立場から、科学的に検討すると問題はあるが、薬を次の<1>~<3>に分ける事ができる。

<1> 効果がはつきりしているが、しかし必ずと云つていい程副作用の伴う薬。例えば抗生物質、強心配糖体、麻酔薬等。

<2> 効果もはつきりしないが、副作用もはつきりしない薬

<3> 効果が疑わしく、副作用が強い薬。

<3>に分類されている薬は、一刻も早く市場から放逐されるべき薬である。

<2>に分類されている薬は非常に多数にのぼる。そして、病院が、経営の事を考慮して薬を使用するとすればこの種の薬になる。

なぜなら、効果がはつきりしないから、その薬を投与される患者の容態は、正常であるか、又は病状が固定しており、急激な症状の変化はないと判断できる。従つて、医者はそれほど注意して患者を観察しなくてすむ。又、副作用もはつきりしないので手軽に注射・投薬ができる。そして、確実に収入を病院にもたらすのである。

つまり、外来で、診察もなく投薬・注射が可能となる薬は、<2>に分類できるのである。

具体的にはアリナミンの類・強肝薬・脳代謝賦活剤等がこの<2>に分類できる薬であると考えられる。これ等の薬は、欧米の薬理学では、薬として登録されていないのである。

現在、厚生大臣の諮問機関である中央薬事審議会で、薬の洗い直しが行なわれているが、例えばアリナミンは、その使用の適応となるべき病気及び使用期間が大巾に減らされているし、又アリナミンとよく似た薬理作用を有するとされたヌトラーゼは、効果がないということで、発売禁止になつている。

原告らは、この<2>に分類される薬を減らそうと考え、実行した。その理由は、効かない薬を投与して無駄な出費を患者や国民に強いる事は職業倫理に反することは言うまでもないし、又科学者としての立場を自ら放棄することになるからである。

又、副作用があまりはつきりしないからといつても、現に今起きており、その副作用に気付かないだけかもしれないからである。

整腸薬キノホルムによつて生じるスモン病の症状に下痢があるが、この下痢を止めるため、スモン病の治療にあたつた医師達が、更にキノホルムを投与して症状を悪化させたという事実もあるからである。

<1>に分類される薬は、患者に適応があれば是非とも使わねばならない薬である。そして、その使用に際して伴う副作用には注意をかたむけねばならない事は云うまでもない。

<2>の薬が、比較的軽症者に使われる事が多いのに反して、<1>の薬は重症者に多く用いられる。従つて重症の患者が増えれば、<1>の薬の量が増加する。

原告等が、薬・注射使用に関して為した事としては、次の事項である。

<1> 臨床薬理の参考書として世界中に読まれているAMA Drug evaluation Medical pharmacology を使用し、週一回読審会を開いた。

<2> 外来患者のうち、医師の診察を受けず注射・投薬をすます患者については診察を受ける様すすめ、入院患者の回診を多くした。

<3> アリナミンの類、強肝剤・脳代謝賦活剤等、科学的根拠に乏しい薬剤についてはなるべくその使用を中止した。

<4> 処方箋は医師が書く。

<5> 外来での慢性患者への投薬日数を、できれば長くした。これは患者さんのタクシー代や、身体的苦痛を考慮してである。

<6> 看護婦にも正しい知識をつけてもらう為、カンフアレンスを持つ。

<7> 地域懇談会を理事会、安全センターと協力して開いた。ただし、これは二回しかできなかつた。

原告等の薬・注射使用に関する右改革は、決してひとりよがりの独断専行ではない。

池永弘充事務部長は、原告らのこの改革を支持したのである。

しかし、原告等の薬・注射に関する右のような診療方針は二つの問題を生じた。

一つは患者から「若い医者は薬をくれない、診察を受けろと口やかましい」という不満であり、一つは投薬・注射による病院収入の減少である。

患者との事で云えば原告等の就職以前の三萩野病院と周囲の病院が薬漬け医療をやつており、そうした医療に慣らされた患者が原告らの医療にある程度違和感を持つたのもやむを得ぬ事であつたと思う。

しかし、三萩野病院全体の医療レベルをあげるより患者と親しむべく努力を原告等が為した事でその違和感は解消され、むしろ患者の方から原告等に薬の副作用について質問がでる事もしばしばあるようになつたのである。

次に収入減について述べる。

原告等の就職する以前、三萩野病院の入院に関する診療収入は予算をオーバーしており、それは検査料と並んで、投薬・注射によるところが大きいのである。

また、外来についても、患者の増加はないが診療収入は上つているのであり、これは薬価基準の高い新薬の使用と、更に一般の他の病院と比較して診療収入特に注射料が高いことが原因である。

つまり三萩野病院は原告等の就職以前は他の一般病院と同じく、否むしろそれ以上に薬・注射によつて収入の増加を得ていたのである。

そして原告等が就職した後、薬の使用を抑える運動をしたため、診療収入は減少した。

数字の上で収入減の実際を示すと、就職前の昭和四五年上半期、原告等が就職した当時の昭和四五年下半期の一日一件当りの診療費を比較すると、

上半期

下半期

入院

投薬料

四四一円

三六二円

注射料

六二六円

四三三円

外来

投薬料

八一二円

八〇八円

注射料

一九〇円

一三八円

である。

(五) 原告らが新病棟建設計画に反対したのは次のような理由による。

三萩野病院には生保患者が異常に多い。昭和四五年上半期、外来で五六・九%、入院で六五%である。

これは三萩野病院が、小倉の貧しい人々の株と、中国からの水害見舞金を基に建てられ、又全生連小倉支部の活動が、三萩野病院と深く関係していた時期があつた事に起因している。

大変残念な事ではあるが、生保者に対する差別意識が広く社会に存在する。例えば、国保の患者が生保の患者と病室を共にしたがらない等のでき事が、原告らの在職中何度も経験された。

従つて、一度世間より生保病院としての評価を受けると他の保険の患者が利用しない傾向が生じ、生保患者がその病院で多くなるという現象が続くのである。

ところで、この生保患者が三萩野病院の理事及び池永事務部長にどう思われていたのかを明らかにせねばならない。

理事会作成の文書には京都南病院、塩釜坂病院に比し『三萩野病院の著しい立遅れの一つとして生活保護層への依存度の高さ』という記述がある。

生保患者が多いという事が、何故立遅れという言葉で表現されるのであろうか。理事達が記し、実際使つた言葉のなかから、理事達及び事務部長が経営上の立場から貧しい生保者を切りすて、差別観念に基ずく新病棟を創ろうとした事を明らかにしたい。

右文書には『生保の外来患者実件数の減少が最も著しい。外来患者の減少は生保患者が減り、他保険の患者が横這いである事に起因している事がはつきりしている』とあり、また被告の第三期新病棟建設計画に際しての「労銀融資保証組合の立証のお願い」という中西理事長名で出された資料によれば、新病棟建設に関して『病院運営の将来方向は、医療制度の変化の方向、医療技術の発展方向、そして地域医療における労働者的視点の堅持という面から、四四年度評議員会、四五年度評議員会の二ケ年に渉り、継続検討して参つた所であります。そして四五年度評議員会におきまして

<1> 病院財政の安定化

<2> 専門病院化

<3> 労働者都市勤労市民を基盤として、これ等の人達の医療要求に応える方向

<4> 豊富な医療陣を擁する医療機関

<5> 労働災害、職業病問題について、一定の役割を果しうる機能を持つた病院

等の方向を踏え、四七年着工を目標として作業を進める事を決定したところであります』と。

以上二つの資料から、理事会、事務部長が、全患者のうち生保患者の割合いが今后とも多くを占めた場合、患者減少―収入減という事態はさけられない。その為には、患者層を都市勤労市民に変え、財政状態の安定をはかろうと考えていた事実は明らかである。

そもそも、三萩野病院は、小倉の貧しい人達のお金によつて建てられた病院ではないか。

小倉の貧しい人々が、自分達の生きる権利を獲得すべく結集した全生連小倉支部の運動と深いかかわりのあつたのは、三萩野病院ではないか。

三萩野病院の圧倒的多数の患者は生保患者であり、しかも退院先の家庭が破壊されて、三萩野病院が全生活の場になつている患者が今多数入院しているではないか。

三萩野病院と、生保の人々とは何重にも深く結びついているのである。この生保の患者の診療をどうするのかを、一言もふれずして、都市勤労市民を基盤とする新病棟を建設しようとするこの理事達の心根にはおどろくばかりではないか。

これまで患者に対する愛情のかけらもなく、病院運営即、商売と考える冷血漢の文章が右の資料である。

原告らが就職した当時、池永事務部長は、原告らに口ぐせのように「病院のイメージチエンジをする」と言つていた。そのイメージチエンジをするという事が、「建物を単に新しくするという事にとどまらず、生保が多いという暗いイメージを改めるのだ、そうしないと近所の普通の人達が診察に来てくれない」と言つていた。

四六年の評議会で、評議員の木戸が『三萩野病院が今の患者で診療を続けるなら、今の病院でよい。患者層を改えるなら新病棟を作るべきだ』旨発言した事をここに記す。

原告らは、新病棟建設に反対した。貧しい、これまで三萩野病院に慣れ親しみ療養生活を送つて来た生保患者を経営上の理由で、病院から追い出そうとする、すなわち人間よりお金を優先させる思想が、新病棟建設の根底に流れている事を見抜いた故に反対したのである。

新病棟建設反対の今一つの理由として、建設に見合う収入を原告らがノルマとして強要されたがこれは、薬・注射に対する原告らの考えと一致しない事によるのはすでに述べた。

(六) 原告らが三萩野病院に常勤医師として勤務するようになつて以降同病院の経営収支が急速に悪化し倒産必至の赤字となつたとの点は否認する。

(1) 被告は、本件解雇が有効たることの理由として病院経営の悪化を主張し、右主張を立証するために被告における貸借対照表、損益計算書等の財務諸表と、木戸次生公認会計士作成にかかる監査報告書等の証拠を書証として提出するけれども、右財務諸表及び監査報告書等は、いずれも証拠能力を有せず、そもそも証拠としての価値を有しないものであるといわなければならない。

以下その理由を述べる。

監査とは、企業経営に関して作成された会計記録が一般に公正妥当と認められた会計の基準に準拠しており、それが企業の財務状態と経営成績を適正に示しているかどうかをその記録を作成した者以外の第三者が立証するために行なわれる手続である。従つて監査により、貸借対照表、損益計算書等の財務諸表が会計原則に従つて財産状態及び営業成績が公正に表示されていると判断されて、はじめてそれらの財務諸表における記載が正しく信用のあるものとされるわけである。

而して、このような監査を行う監査人は監査業務を遂行するにあたつて公正不偏の態度を守ることが要求される。(これは監査人の独立性の原則と呼ばれる)

これについては公認会計士法は特別利害関係人という語でもつて監査人の独立性の原則を要求している。即ち公認会計士法二四条は次のように規定するのである。「公認会計士は財務書類のうち、左の各号に該当するものについては第二条一項の業務を行つてはならない。公認会計士又はその配偶者が役員これに準ずるもの、若くは財務の責任ある担当者であり、又は過去一年間にこれらの者であつた会社その他の団体の財務書類」そして、このような公認会計士法に違反した監査は、ただ単に証明力が失なわれるのでなく、およそ証拠とすることができないし即ち証拠能力が失なわれるのである。ところが本件において被告の経営状態について監査を行つた木戸次生公認会計士は昭和四六年一〇月一三日には被告法人の評議員の一員であり評議員会において、三萩野病院の経営方針について自己の見解を発表する等しており、積極的に経営に参加している。

被告法人における評議員会は、民法上の機関ではないが寄付行為において <1>理事会の諮問機関として理事会に助言する。<2>事業計画及び予算の同意 <3>理事監事の選任に同意する等の権限を与えられている。

このような場合、評議員会の構成員は、公認会計士法二四条一項の「役員」あるいは「これに準ずる者」に該当するものであり、監査に関しての法律の要求である独立性の原則をみたしていない。

とすると、被告が提出した計算書類、財務諸表及びそれに対する監査報告書はすべて証拠能力を欠くものといわなければならない。

また、被告法人は、財団法人が三萩野病院という病院を経営するという構造になつており、この構造に対応して被告法人における会計は、法人会計と病院会計という二つの会計がたてられている。

このように部門別に会計が分離されて処理されるのは、各部門別にその事業活動の経営状態を正確に把握しもつて各事業部門の経営を合理的に行うという法人の内部的目的のためになされるものである。

このことは次の諸点の結論を導きだすものである。即ち、

第一に、そのことは各事業部門ごとに明確な経理区分がなされるべきであり、各事業に共通する損益、またはその区分が不明確な損益についてその実情に適すると認められる割合によつて経理区分がなされるべきであるということであり、

第二に、各事業部門別に会計を区分するのは、あくまでも各事業部門を統括する法人がその各事業別にその経営状態を明確に把握するための内部目的のためであるから整理解雇の有効要件としての経営が悪化し人員整理を行なわなければ倒産必至であるような赤字状態の存在が要求されるのは、各事業部門についてではなく、各事業部門を統括する法人自体(法人会計ではなく)に生ずることが必要である。

ということである。

以上の二点は法人が営利法人である場合と公益法人である場合とを問わず、それに共通するものであるということであるが、法人が民法三四条に規定する公益事業を目的とする財団法人である場合には、さらに次の点も要求されてくるのである。つまり

財団法人は設立者が提供した財産とその運用によつてえられた財産収入、寄付金、収益事業からの繰入金を財源にして公益事業を行うものである。従つて財団法人の経営は、長期的展望にたつて現在手もとにある設立者が提供した財産やその運用によつてえられた財産収入等を基礎として一会計年度の予算を決定するものであり、これにもとずいて執行機関が執行することになるものである。

被告が経営する三萩野病院における事業は、寄付行為より明らかなように被告の公益事業活動そのものに外ならないものである。従つて法人会計とは別個に設けられている病院会計は、被告においては生産的企業予算が導入されているが、これは以上のところから明らかなように法人が病院経営の合理化をはかるための指標にすぎないものであり、病院会計が財団法人の年間の活動予算の執行のためのものでしかないのである。

このことより、更に次の諸点を指摘することができる。即ち、

第三に、財団法人の目的である公益事業としての病院事業を運営するに必要な資金については、財団法人の理事が経済的事由により困難となつた場合は、商業主義的採算ベースによる合理化を行うべきではなく、まず第一に対外的に寄付を募る等の努力をなすべきであり、

第四に、法人の経営状態の良好か否かの指標は、年度の初めに設定された病院経営の支出についての予算が財団法人の財産状態に即して適正に設定されたものであることを前提として、適正に設定された予算と現実に支出された支出との対比において判断されなければならない、ということである。

以上の四点を指標として以下の如く被告の経営問題についての分析を行うこととする。

経理区分について

第一指標である経理区分の明確化の要請について問題点を指摘することにする。

木戸公認会計士は昭和四〇年七月七日付監査報告書において、既に <1>法人本部財産に含まれるものと病院会計財産とを明確にすること。<2>病院会計の財務責任の確立という点を指摘し、昭和四〇年の段階において既に、法人本部会計と病院会計との有機的関連性及びそれにかかわる病院経営における管理統制責任の不明確、または欠如を指摘している。

そして、昭和四五年七月一三日付監査報告書においても同様に、会計処理規程・事務分掌、組織の点についての改革を指摘しており、被告法人において五年間に亘り何ら法人本部会計と病院会計についての経理区分が明確化されていないことを指摘することができるのであり、このような状態は、原告らの解雇に至るまで何ら改革されていない。

被告法人については、法人本部会計と病院会計との二つに会計が区分されているが、このように会計を区分するについての基準となる経理区分が全く明確化されていないのである。

このことは次のことを結論づけることができる。

第一に、法人本部会計には全く人件費が計上されていないこと、あるいは法人本部会計には損益計算書の費用項目にわずかに旅費、交通費、または役員行動費、公租公課、雑費の三項目がいずれの会計年度においても主たる支出として計上されていることにみられるように、「公益法人に対しては非課税扱い、収益事業に対しては課税扱い」という現行税制のもとにおいて脱税のために「本来公益法人が負担すべき支出を収益事業の支出として収益事業に負担させ」ていることが指摘できるのであり、

第二に、従つて法人本部会計と病院会計に会計を区分しても、そこにおける会計数値は、全く裏づけを欠いたものであつて、そこにおける会計数値をもつて、被告法人の経営状態が如何なるものかは全く把握できない。

被告が証拠として公判廷に提出した計算書類等は全く信用性がなく、具体的に経営状態を分析するまでもなく、被告の主張は排斥されるべきである。

(2) しかし、一〇〇歩譲つて、証拠として提出された計算書類の数字が正しいとされた場合被告の経営状態は、はたして被告が主張する如く経営が悪化している状態であつたのであろうか。以下において前項で問題提起した経営分析についての各指標ごとに被告の経営状態について検討することとし、その第一歩として前項で指摘した第二の指標(法人本部会計と病院会計と総合したときにおける被告の経営状態によつて判断されなければならないというもの)から分析を始めることとする。

監査概要書中附表No.―7は法人及び病院会計を総合したときの貸借対照表である。そこで、この附表No.―7を中心にして被告の経営状態について検討する。

ところで会計学上、実数分析の方法と比率分析の方法との二つの方法によつて経営分析をすることができる。そこでまず第一に前者の方法により検討すると、

イ 資産について

a 資産中、流動資産は昭和四三年度(四四年三月期)より昭和四七年度(同四八年三月期)まで一貫して増加している。

b 他方資産中、固定資産はその計においては昭和四五年度(四六年三月期)の九四四九万円を最高として、その後は激減している。

資産合計では、固定資産と同様に昭和四五年度の一億五〇、七二万円を最高としてその後は激減している。つまりa及びbより総合すると流動資産の増加を上回る固定資産の減少があつたことが資産合計の減少の原因となつたものである。

固定資産の減少は、償却資産の減少に原因するものである。即ち、固定資産中、非償却資産(土地)及びその他については昭和四三年度以降はいずれも増加している。つまり固定資産の減少の原因は昭和四六年度(昭和四七年三月期)に、これら三項目の増加を上回る大規模な償却資産の減少にあるわけである(昭和四六年三月より翌四七年三月の一年間に償却資産が約一、二〇〇万円減少しているのに、その他の増加分はわずかに約五三万円である)償却資産の減少は、償却資産たる物件そのものが減少したことによるのではなく大幅な減価償却による評価額の減少に原因するものである。即ち、昭和四七年三月期における資金の源泉の項目においては一、一一一万円の減価償却費が計上されておりこの金額は前に指摘した償却資産の減少分に対応している。このことにより、大幅な償却資産の減少(昭和四十六年度)の原因は大幅な減価償却にあると結論づけられる。

而して、資産の源泉中昭和四五年三月期の減価償却費七六〇万円を一〇〇として減価償却費の対比表を作成すると次のとおりである。

四―一表

昭和四四年度

四五年度

四六年度

四七年度

一〇〇

一七〇・九

一四六・二

一〇九・二

右表より、昭和四五年度及び昭和四六年度の二年度において多額の減価償却費が計上されていることが判明する。そして減価償却は、投資した設備について耐用年数の経過後にその更新の経済的保障のために固定資産について行われるものであり、従つて多額の減価償却費が貸借対照表に計上されるということは大規模の設備投資がなされたことを意味する(その数字が虚偽でない前提においてであるが)。特に三萩野病院のように定率法で減価償却がなされるものであるときには設備投資がなされた直後の減価償却費はきわめて多額なものとなる。

事実、昭和四五年三月期には四六八万円の、又翌四六年三月期には実に二、四四五万円の設備投資がなされていることが資金の使途の欄より明らかである。この二年間の設備投資、特に昭和四五年度の設備投資が昭和四六年度の多額な減価償却費の増加に結びついているのである。

以上のところを要約すると、昭和四四年度・四五年度(特に後者)の大規模な設備投資―昭和四六年度の減価償却費の増大―固定資産の減少と展開されているのである。

ロ 負債について

負債の項目のうち金額の最も小さい昭和四四年三月期の引当金を一〇〇として負債の各項目についての対比表を作成すると次のとおりである。

四―二表

昭和四三年度

四四年度

四五年度

四六年度

四七年度

引当金

一〇〇

一五四

一六四

七三

三九

流動負債

五一四

六〇一

五五二

五八九

六〇四

固定負債

一、一七六

一、二七九

一、五六一

一、五七一

一、三四三

負債合計をみると、それは昭和四六年度(昭和四七年三月期)まで増加の一途をたどつている。そして前の表よりすると負債の増大の原因は、昭和四五年度(昭和四六年三月期)及び昭和四六年度(昭和四七年三月期)における固定負債の大幅な増加にあることが判明する。

昭和四五年度及び昭和四六年度において固定負債が増大していることの意味は、昭和四五年度に大量の借入金(一、二〇〇万円余)があり、右借入金が昭和四六年度においても返済されていないことを意味するものである。

通常の場合、借入金が固定負債に計上されるとそれは現金の増加をもたらすから、貸借対照表上は流動資産の増加としてあらわれるべきものである。

ところが昭和四六年三月期にはイ―aで述べたとおり、前年同期とほぼ同じ状態である。従つて借入金は他のものに形をかえていると結論づけられる。

それでは一、二〇〇万円余の借入金は何に使われたのであろうか。

昭和四六年三月期における(資金の使途)の項をみると「固定資産取得(土地)」と「その他」との合計額がほぼこれに相当する。又、資産の項目中の著しい特徴は「非償却資産(投資)」の増加である。つまり、一、二〇〇万円余の借入金は投機のために一、〇一〇万円の土地の購入のためと「その他」のために使われたということができるのである。(この投資のために購入された土地が全く投資のためであり、病院の運営には全く関係のないものであることは財産目録に明らかである)

このように投機のための借入金が翌年度も返済されない状態であつたことが昭和四六年度における負債総額を高いものとしているのである。

ハ イ及びロよりの結論

a 巨額の設備投資が行われた場合、減価償却費の飛躍的増大がもたらされ、それが損益計算書上でマイナス要因となるものであることは常識である。しかし、設備投資は将来における大きな増収のために企業規模を拡大しようとするものである、特に減価償却が定率法によつてなされるのは大規模な設備投資がなされたときに会計上は固定資産を減らすことにより実質的に企業内に資金を確保し、もつて大規模な設備投資がもたらす当面の経営の逼迫を防止しようとするものである。その意味で〔固定資産の減少―減価償却費の増大―大規模な設備投資〕というメカニズムを理解すると被告の経営状態が不良であつたということは全くできない。

b しかも被告は、大規模な設備投資がなされたとき当面は経営の確立に全力を注ぐべき時期に、こともあろうに財団法人の使命に反し、土地投機のための大規模な借り入れをなしているものである。このことは次のことを意味する。

第一に昭和四六年度の赤字は病院経営者の全く恣意的な経営による「作られた赤字」であるということである。

第二に後述するように、投機のために購入した土地については昭和四七年度にはこれを売却し、それによつて六六〇万円の売却益金を得ているのであつて財団法人のあり方からすれば、それはその理念にもとるものでありながらもこのような売却益金が確保できるほどの財産を昭和四五年度に取得したことにみられるように病院経営はきわめて安定しているということである。

c 以上のところにより被告は昭和四六年度は損益計算書上は確かに赤字でありながらも、それは病院経営者によつて意図的に作られたものでしかなく、病院経営は実質的には安定しているということが明らかである。

次に、企業の経営分析のもう一つの方法である比率分析の方法により被告の経営状態を検討することとする。

比率分析の方法による経営分析には会計学上、(1)企業の収益性、(2)財務の流動性、(3)資本の安全性等の観点より行うことができる。ところで企業の収益性については資本利益率により又資本の安全率については総資本安全率により判断されるものであるが、これらは資本の概念を用いてその比率を算出するものである。而して監査概要書の付表No.―7の貸借対照表には資本の項目が記載されていないので資本の概念を用いない比率分析の方法である流動比率により流動性の観点より被告の経営状態を分析することとする。

イ 流動率にみた場合の被告の経営状態

a 流動率の機能と概念

財務の流動性は企業の支払能力=信用能力を判断するための指標であり流動性が高ければ高いほど企業経営が安定しているということができる。そして財務の流動性についての指標のうち流動比率とは流動資産の流動負債(短期借入資本)に対する比率でありそれは次の計算式により求められる。

流動比率=流動資産/流動負債×100%

流動比率は信用分析的立場より最も重視されているものであり銀行業者が企業に対する信用授与の観点から重視しているために銀行家比率とも呼ばれている。そしてこれは経済的には少なくとも二〇〇%以上に維持されていることが必要とされている。これは二対一の原則と呼ばれている。

これによつて企業の短期の支払能力の状態が判断されるのである。

b 流動比率の経年的推移

監査概要書の貸借対照表(付表No.7)により被告の流動比率を求めると次のとおりである。

四―三表

昭和四四年三月期

四五年同

四六年同

四七年同

四八年同

一九九

二〇四

二一五

二一二

二四三

右表により被告においては昭和四四年三月期以降流動比率は一貫して増加しており被告に赤字が生じた昭和四七年三月期にはじめて三%の低下をみせるだけであつて、それは昭和四五年三月期に比較してもはるかに高率であり、流動負債に対し二倍以上の流動資産が常に準備されているのである。このように医薬品等を仕入れたときに生ずる仕入債務等の流動負債については現金等の流動資産で支払う能力が確保されていたのであり被告の信用力は安定していたのである。

c 結論

つまり被告の経営状態のうち短期的な経営状態については安定したものであり、昭和四四年三月期以降は良好な傾向をたどつていると結論づけられるものである。

ロ 総資産対総負債比率にみた場合の被告の経営状態の問題点

a 総資産対総負債比率の経年的推移

イに引き続き支払可能性という観点より総資産対総負債比率によりて被告の経営状態を分析する。この比率は次の計算式により求められる。

総資産対総負債比率=総資産/総負債×100%

監査概要書の付表No.7より右比率の経年的推移をひろうと次のとおりである。

四―四表

昭和四四年三月期

四五年同期

四六年同期

四七年同期

四八年同期

一三六・二

一三六・四

一四二・二

一三六・三

一四四・三

b 総資産対総負債比率にみた被告の経営状態

aにおける経年的推移より次のことが指摘される。

即ち、この比率は昭和四四年三月期より原告の第一次解雇があつた昭和四七年三月期まで一貫して一三六%の比率を保つて安定しているということである。(四六年三月期は約六%の上昇を示しておりこの年は特に支払可能性が高い)

つまり総負債に対しても毎年それを上回る資産が準備されており被告の支払能力は安定しており被告の経営状態の長期的なそれについても安定しており被告の経営状態が悪化した事実は全くみうけられないのである。

ハ 流動資産対固定資産比率にみた場合の被告の経営状態の問題点

a 流動資産対固定資産比率の概念と機能

企業の資産構成が適正であることは企業の経営規模が適正に維持されることを意味するとともに各種資産相互間の調和的構成が保持されていることを意味する。

その意味において資産構成の如何に対する分析的観点は経営分析にとつてきわめて重要である。それは流動資産対固定資産比率によつて判断される。その計算式は次のとおりである。

流動資産対固定資産比率=流動資産/固定資産×100%

b 流動資産対固定資産比率の経年的推移

監査概要書中付表No.7によりその比率を求めると次のとおりである。

四―五表

昭和四四年三月期

四五年同期

四六年同期

四七年同期

四八年同期

七二・三

七八・七

五九・五

六八・一

一〇六・六

右表により次の点が指摘される。

第一に昭和四六年三月期(昭和四五年度)及び昭和四七年三月期(昭和四六年度)の二年間は流動資産対固定資産比率が著しく低下している。

第二にこの比率の低下は固定資産の構成比率が高まつたことを意味する。何故ならば先に述べた如く流動資産は増加傾向にあつたのであり、このような場合に流動資産対固定資産比率が低下するのはaで指摘した計算式の分母たる固定資産が増大するしかないようである。

第三に右二年間の固定資産の増大は先に述べた如く投機のための土地の取得及び大規模な設備投資に原因する。

第四に昭和四六年三月期より翌年同期までの一年間に本件比率は八・六%上昇している。この原因は先に述べた如く一、一一一万円の減価償却にある。

c a及びbよりの結論

以上のところより次のことが結論づけられる。即ち昭和四五年度及び昭和四六年度の二年度において大規模な設備投資と土地投機のために被告の資産構成のバランスが失なわれている。このような資産構成のバランスを変更せしめる大規模な設備投資や土地投機はいうまでもなく被告理事会の経営方針に基づいて実行されたものであり、その責任はあげて理事会にあるといわなければならない。

d 昭和四八年三月期の本件比率の上昇の意味

なおちなみに昭和四八年三月期に本件比率(流動資産対固定資産比率)が一挙に一〇六・六%に上昇したことについて言及する。

1 昭和四八年三月期において固定資産の項目中著るしく減少したのは非償却資産(投資)でありその減少額は一、二八七万円である。

2  その減少の原因は付表No.7中「土地売却益」の項六五九万円と対応してみると昭和四五年三月期及び翌年同期の二年間に取得した投機のための土地を売却したことにあると判明する。これにより右比率が急上昇したのである。

3  これら投機用の土地は財産目録により病院経営とは直接関係のない小倉南区大字長野山の山林一、〇五三坪及び八幡西区木屋瀬の土地一、四一一坪であることが判明する。これらの投機用の土地の一部を売却して昭和四八年三月期には実に六五九万円の売却益を取得しているのである。

4  被告に赤字を生じたのは昭和四六年度であるが、経営後退がみられたときに経営責任者が講ずべき手段はこのような投機用に取得した土地を転売して、その売却益により収入の改善に努めるべきはずのものであるが、このような措置は病院経営が後退したといわれた昭和四六年度には全くされず、本件解雇後にこの措置を講じているのである。

5  この意味において病院経営責任者たる理事会において経営改善の努力がなされたあとは全くみられない。

ニ 比率分析の方法による被告の経営状態の分析の結論

第一に、経営状態を判断する上で最も重要な指標である流動率よりみた場合において、右流動率は二対一の原則の要請をみたしているばかりか年々それは上昇傾向にあり、被告の支払能力はきわめて安定しており、信用力、支払能力はきわめて良好であり、

第二に、総資産対総負債比率により支払能力を分析した場合においても常に負債以上の資産が確保され支払能力はきわめて安定しており、

第三に、従つて被告は病院、法人両会計を総合したときにはその経営状態は短期的な規模でも又長期的な規模でも安定かつ良好であり、

第四に、昭和四六年度における経営の後退は経営責任者の経営責任事項である大規模な設備投資と土地の投機による被告の資産構成のバランスがくずれたことに原因するものである。

以上本項の結論としては、第一に、法人・病院両会計を総合した場合には流動比率及び総資本対総負債比率の各経年的推移にみられるように被告の経営状態は短期的にも長期的にも安定的であり良好であつた。

整理解雇の有効要件については何よりも倒産必至の赤字が存在することが要求されることは既に述べたところであるが、本件はその要件事実すら存在しないのである。

第二に、昭和四七年三月期における病院会計の損益計算書上の六九一万円の赤字の原因は昭和四六年三月期に二、四四五万円に及ぶ大規模な設備投資がなされ、それが減価償却費の増として四六年三月期、四七年三月期に現われた為である。

これらはすべて経営者たる理事会の経営責任に属することでありその責任は大規模な設備投資を無計画に行つた理事会に帰せられるべきであり、人件費の削減=解雇により責任を原告等に転嫁するべきではない。

第三に、理事会の経営に対する自覚のなさは問題が生じた昭和四六年度に投機した土地の売却による収支の安定をはかろうとする努力をしなかつたことに端的にみいだせるのである。

(3) 前項で分析したように、法人・病院両会計を総合した場合は、流動比率、及び総資産対総負債比率の分析結果に明らかな如く、被告の支払能力は、短期的にも長期的にもきわめて高く、被告の経営状態はきわめて安定的であり良好であつた。

このような場合、本件における解雇の正当事由たる倒産必至の赤字の存在という要件に該当する事実が存在しないため、被告の経営状態について分析の必要はないが、被告は病院会計の損益計算書に赤字が生じたことを本件解雇の理由と主張するので、この点について反論する。

<1> 損益計算書の経年的推移

監査概要書中付表No.2により、被告の経営状態を検討することとする。

右付表に明らかなように、被告に赤字が生じたのは昭和四六年度(昭和四七年三月期)であり、病院会計に生じた赤字は六九一万円である。

ところで、損益計算書では、利益は、収入マイナス費用の計算式より求められる。そこで収入及び費用についてそれぞれ分析することにより、昭和四六年度の赤字の原因を明らかにする。

イ、収入について

a 被告の収入のうち圧倒的に大きな比重を占めるのは診療収入であるところの事業収入である。この事業収入は、昭和四四年度以降一貫して増加している。それに伴い収入合計も増加している。

b 従つて、前述した損益計算書における利益の計算式に即すると、昭和四六年度に生じた赤字の原因は収入にあるのではなく、費用(費用が増大したこと)にあると結論づけられる。

ロ、費用について

a 費用は、その合計においてみると、イ―bで指摘したとおり、昭和四四年度以降一貫して増加しており、その増加額は、昭和四五年度に約二、〇〇〇万円、翌四六年度には約九〇〇万円であつて、その増加は著しい。増加額は収入合計よりも多く、それが昭和四六年度の赤字の原因となつている。左の四―六表は、社団法人全日本病院協会が行つた病院経営実態調査の結果を同協会の副会長遠山豪が行つた「病院の経営実態」と被告より提出された証拠により、人件費・減価償却費・総支出の各項目について作成したものである。

被告病院との対比において、公的病院を基準としたのは被告病院が、経営のあり方より、公的病院として性格づけられるからである。即ち、現行法上、病院はその経営のあり方より、国公立病院、公的病院(済生会病院・国民保険病院・日赤病院がこれに該当する)、医療法人病院(医療法三条以下を根拠として設立されるもの)、個人病院の四種類に分類される。

被告が経営する三萩野病院は公的病院に該当する。その理由は次のとおりである。即ち

財団法人小倉地区労働者医療協会は、小倉地区労働組合評議会が出捐して設立されたものである。従つて、右財団法人は民法における財団法人であつて、公益法人として営利を目的とするものではないことはいうまでもないところである。事実、寄付行為第五条において、右協会は一般勤労市民に対する社会福祉に必要な事業を行うために設立されたものであるとその性格について規定しているのである。

このようにしてみると、同協会が経営する三萩野病院は、その医療内容及び経営において私企業として営利を追求する個人病院でもなければ、又税制上有利であることから、常勤医師が三名以上いる場合に設立がみとめられる医療法人とも異なるところはいうまでもないからである。

四―六表 総収入を一〇〇とした時の各項目の割合

S四三

S四四

S四五

S四六

公的病院

三萩野

公的病院

三萩野

公的病院

三萩野

公的病院

三萩野

総収入

一〇〇

一〇〇

一〇〇

一〇〇

一〇〇

一〇〇

一〇〇

一〇〇

人件費

四六、五

四一

四八、二

四二、一

四三、六

四六、五

四七、一

五〇、八

減価償却費

六、五

四、九

二、五

七、七

三、三

六、四

総支出

一〇三、八

九一、八

一〇六、四

九一、五

九九、二

九六、四

一〇二、八

一〇三、四

b まず、四―六表より次の点が結論づけられる。

第一に、三萩野病院は、公的病院が赤字で経営に苦しんでいるにも拘らず、昭和四五年度までは大幅な黒字であり、好調な経営状態にあつた。

第二に、公的病院との比較における三萩野病院の著しい特徴は、人件費の著しい低さ(昭和四三・四四年度)と減価償却費の著しい高さ(昭和四五・四六年度)である。

第三に、人件費の著しい低さと同時期における三萩野病院の著しい黒字より判断すると、雇傭された労働者の低賃金(公的病院の平均を、はるかに下回る低賃金)に支えられていたものであることが判明する。

第四に、減価償却費が著しい高さ(公的病院とに比較して)にあることは、この時期において、大規模な設備投資がなされたものであるということができる。この点については既に(2)項で述べた。

c 昭和四八年一一月二八日付監査報告書付表8・9及び11において、損益計算書における各費用項目についての構成比率を指摘している。右表より次の諸点が結論づけられる。

第一、人件費は昭和四四年度における対事業収入比が四二・〇六%であつたのが、四六・四七%→五一・四七%と上昇し、その上昇率、構成比率が高い。

第二、物件費は昭和四四年度における対事業収入比が三五・七〇%であつたのが、昭和四六年度では三五・五九%で大きな変動がない。

第三、経費は、昭和四五年度に構成比率が上昇したもののその後は変動していない。

第四、減価償却費は、昭和四五・四六年度における構成比率が高い。

第五、その他の費用は構成比率が低く、その変動は費用総体に大きな影響を及ぼさない。

d b及びcより昭和四六年度における病院会計の赤字の原因は人件費の増大及び(2)項に指摘したように昭和四四・四五各年度における大規模な設備投資に原因する多額な減価償却費の負担が昭和四六年度まで続いていることが判明する。

<2> 医師の解雇による人件費削減の不当性について

イ、公的病院と比較した場合の人件費削減の不当性

<1>―ロ―bで指摘した如く、三萩野病院は昭和四五年度までは公的病院と比較し、著しい黒字を続けており、昭和四六年度に初めて生じた赤字も他の公的病院と同程度の経営状態となつたにすぎないものである。このようにして毎年相当額の黒字を生みだして累積を重ねた被告が、病院会計において一度だけ、しかも公的病院と同程度の経営状態となつたことにより、人件費を削減する必要性があつたということはできない。

ロ、本件赤字の原因の一つは、過大な設備投資による減価償却費の負担に求められる。これは(2)項で指摘したとおり、被告の経営責任に属する問題であり、経営責任者が設備投資に対し慎重な判断をしていた場合には、昭和四五・四六各年度にそれぞれ一、二九九万円及び一、一一一万円という多額な減価償却費が計上されなかつたはずである。

昭和四六年度における人件費の増加分は、合計約一、〇〇〇万円であるが、大規模な設備投資がさし控えられていたとすれば、少なくとも人件費の増加分についてのかなりな財源が確保され、昭和四六年度における六九一万円の赤字は生じなかつたはずである。

その意味において病院会計の損益計算書上の赤字は、被告の経営についての判断の誤りよりもたらされたものであり、「作られた赤字」であるといえる。

ハ、損益計算書に生じた昭和四六年度の赤字の解消を医師の人件費の削減に求める合理的理由もない。以下その理由を述べる。

a  医師給与の比較

三萩野病院の経営に原告等が関与しうる大きな因子は二つある。

一つは診療収入であり、他の一つは医師給与である。

診療収入については前述の如く、原告等の三萩野病院就職以降も漸増している。診療収入の増加にも拘わらず原告等の給与が高額な為、病院経営に過大な負担を与えるならば、あるいは解雇の正当事由となると強弁しうるかもしれない。

そこで、医師給与について述べる。

「病院の経営実態」から公的病院における医師一人一ケ月の平均給与を読みとれば、二五四、七七五円である。これを原告等の給与と比較すると、秋根康之一八一、四七五円、佐藤誠一三一、八二五円、成瀬博之三四五、八〇〇円であつて、成瀬博之を除き原告等は大巾に下回つている。

昭和四六年四月に、福岡県立遠賀病院外科部長より、三萩野病院に乞われて就職した成瀬博之の場合は若干事情が異なるが原告等が三萩野病院に就職するにあたつて、原告等はもうけ主義医療に反対するという姿勢を、被告側に明確に示し、原告等は薬・注射の多用のもうけ主義医療を行わない為、三萩野病院の経営は悪化するであろうから、医師としての相場どうりの高給を要求しないとの態度を示した為、相場よりも低い給与となつているのである。

原告等の給与が相対的に低いとしても、数が多ければ病院経営上の過大な負担になりうる。では、この議論が成立しうるか否か、他の同種病院との比較を行う。

昭和四七年二月当時、三萩野病院の医師には原告等の他に給与月額四〇万円と推定される福山医師・小野医師がいた。彼等を含めて比較したものが左表である。

四―七表 医師給与が総収入ならびに全従業員給与に占める割合

公的病院

三萩野

総収入に対する割合

一六%

一五%

全従業員給与に対する割合

二九%

三〇、五%

(前記「病院の経営実態」三萩野は昭和四六年予算の数値を採用)

右表に示される如く、三萩野病院の医師給与総額は、略々平均的なものである。これには高給の医師二名の給与分が含まれていて、原告等の給与分のみを論ずればさらに比率は小さくなる。

以上に示される如く、原告等の給与が病院経営に過大な負担をかけたとする合理的根拠はない。

b  原告等が三萩野病院に就職することによつて、原告等の給与が病院経営における人件費の増加の最大の要因であるならば、あるいは解雇の理由になると強弁しうるかもしれない。

前述したように、原告等の給与は成瀬博之は若干異なるが、相場よりもかなり低い。そして、他の公的病院と比較した時、三萩野病院は医師給与が、総収入・全従業員給与に占める割合は二名の高給の医師(福山・小野)を含めても、平均的なものであつた。しかし、原告等の給与によつて、以前と比べて医師給与の全従業員給与に占める割合が飛躍的に大きくなり、その為に人件費の増加をきたしたのならば、原告等の経営上の責任も問えると、あるいは強弁しうるかもしれない。

そこで、原告等が三萩野病院に就職することによつて、全従業員給与に医師給与の占める割合が、どの程度の変動を見せたかを求めた。

四―八表 直接人件費のうち医師給与の占める割合

S四二

S四三

S四四

S四五

S四六

直接人件費

医師給与

二六、四%

三〇、〇%

二九、三%

二九、二%

三〇、五%

原告等が三萩野病院に就職したのは昭和四五年九月以降であるが、医師数は飛躍的に増えたにも関らず、原告等の給与が相対的に低い為、殆んど変動していない。

このことから、人件費の増加は医師給与の増加の為であるとは言えないことがわかる。

c  まとめ

病院会計における、損益計算書における昭和四六年度のみかけ上の赤字の原因は、人件費の増大及び減価償却費の絶対額の多さ(二年度にわたる多額の設備投資の必然的結果としての減価償却費の増加)である。しかし、これらは病院経営者の経営についての判断の誤りによる過大な設備投資により、もたらされた「作られた赤字」である。

原告等は、三萩野病院の経営管理・運営において責任を負う地位にはなかつた。このようなとき、経営の側が自己の責任を負う前に原告等の解雇を行うことには全くの正当性がない。

(4) 病院経営における理事及び事務執行者の責任

<1> 財団法人における理事の経営に関する責任

イ  法人会計にみた場合の寄附金の外部からの調達状況―(第三の指標について)―

a  被告は、寄附行為に明らかなように、「一般勤労市民に対する社会福祉に必要な事業を為すことをその目的」(同第五条)とするために設立され、その設立趣旨にそうように財団運営の最高決定機関である理事会は、被告の活動により利益を享受する一般勤労市民の組織的表現である労働組合より派遣される理事によつて構成されている。

財団法人が営利を目的とするものではなく、従つて財団法人が経営する事業より利潤を得ることが期待されるべきものではない以上、財団法人の活動の拡大・充実は、理事の積極的な外部からの資金の調達(寄附・カンパ)によるべきであることは既に述べた。

b  左の四―九表は昭和三九年下半期以降の法人会計における寄附金の調達状況の一覧表である。

四―九表

昭和三九年度

四〇年度

四一年度

四二年度

四三年度

四四年度

四五年度

四六年度前半

(A)

一二七、五二八

一、二〇〇、〇〇〇

一、五〇〇、〇〇〇

一、七〇〇、〇〇〇

一、七四一、〇〇〇

一、八八九、六〇〇

(B)

一、五〇〇、〇〇〇

二四一、〇〇〇

一、八八九、六〇〇

右表四―九(A)は法人会計の損益計算書中寄附金収入として計上されたものをそのまま表にしたものである。

ところが、病院会計の損益計算書と法人会計のそれとを同じ年度に対応させてみると、法人会計において寄付金収入として計上されているものは実は病院会計における寄附金ないしは公益事業寄附金として支出されたものが、そつくりそのまま法人会計に流れていつているのである。そこで、病院会計から法人会計へのこのような寄附金のくりこみを除外して、純粋に外部からもたらされた寄附金収入を記載したものが表四―九(B)である。

c  この四―九表(B)にみられるように被告における寄附金の調達は全くというほどなされていない。

病院会計の規模は昭和四六年度には一億七、〇〇〇万円であり、これに比較すると外部からの資金の調達という財団法人における基本的要請について理事が、その責任を果していないことが明らかとなる。

特に、「経営危機」が叫ばれた昭和四六年度においては、その前期における寄付金収入は、なんと〇であり、理事は全くその責任を果していないのである。

(昭和四六年度後期の法人会計の損益計算書が証拠として提出されていないので、後期の実状は把握できないが、監査概要書付表No.6の「法人会計収支」の項をみる限り、寄附金があつたことは推測することができない。)

d  とすると、整理解雇の有効要件としての「人件費削減(人員整理)に至るまでに倒産回避のための処置を講じたものである」との事実もなく、本件解雇は全く無効といわなければならない。

ロ  経営改善についての理事の努力

a  昭和四六年度には、病院会計の損益計算書に赤字を生じたものであること、そのみせかけの原因は人件費の増大と大きな減価償却費であること、しかし真の原因は昭和四四・四五年度の二年間に及ぶ大規模な設備投資の結果、減価償却費が増大し、その増大した減価償却費が人件費の財源を圧迫したものであること、つまり、病院経営者たる理事の経営に関して適切なる判断をなしえず設備投資の実行についての慎重なる判断をなしきれなかつたことは既に(3)項で述べた。

b  このような経営者の経営無能力のあらわれとして、赤字が生じた昭和四六年度は投機土地の売却による収支の改善の努力のあとが全くみられない。(このことは(2)項で述べた)

c  以上の意味において、本件解雇の有効要件として解雇に至るまでにおける企業側の経営改善の努力という要件をみいだすこともできない。

<2> 予算の執行の適正化の要求についての事務執行者の責任―(第四の指標について)―

イ  公益法人の予算は、営利企業のいわゆる企業予算とその本質を異にし、支出について決定された予算は厳格な拘束力をもつものである。

予算における収入は、公益法人であると営利法人であるとを問わず、獲得すべき財産についての予測的計数にすぎず、支出における予算は財産の運営について執行機関を拘束するものであることを注意しなければならない。

ロ  そこで、病院会計の損益計算書において圧倒的に重要な比重を占める事業収益と事業費用の一覧表を作成すると、四―一〇表のとおりである。

そして事業費用における予算に対する実績の比(実績を予算で除したもの)は四―一一表である。

四―一〇表及び四―一一表より、次の諸点が結論される。

第一に、事業収益については、毎年度予算額を超過する成績をあげている。これは病院経営が良好であることを示す。

第二に、事業費用総計についてみると昭和四三年度のみ予算内におさまつたのを除くとすべて予算をオーバーしており、はなはだしいときは、予算の一四%もオーバーしている。

第三に、人件費については、昭和四二年度以降予算の範囲内で処理される傾向が定着しつつある。

第四に、物件費については、予算を超過する傾向がある。

四―10表

40年度

41年度

42年度

43年度

44年度

45年度

46年度前期

事業収益 予算

実績

7,655

8,183

8,696

8,702

11,806

12,173

13,634

13,837

14,199

15,379

16,199

16,977

8,406

8,530

事業費用総計 予算

実績

6,716

7,657

8,131

8,318

11,225

11,869

12,927

12,695

13,552

14,069

15,299

16,621

8,271

8,579

<1>人件費 予算

実績

2,889

3,205

3,464

3,791

5,314

4,912

5,861

5,670

6,425

6,361

7,548

7,741

4,101

4,131

<2>物件費 予算

実績

2,782

3,116

3,534

3,234

4,225

4,796

5,020

4,835

5,018

5,490

5,422

5,602

2,836

3,097

<3>経費 予算

実績

1,044

1,355

1,131

1,263

1,684

2,159

2,045

2,190

2,108

2,218

2,308

3,018

1,330

1,350

事業収益 予算

実績

938

526

565

383

581

304

706

1,141

647

1,309

900

615

135

49

単位万円 1,000円以下切捨

四―11表

40年度

41年度

42年度

43年度

44年度

45年度

46年度前期

事業費用総計

人件費

物件費

経費

114.0%

110.9

112.0

129.7

102.2

109.4

91.5

111.6

105.7

92.4

113.5

128.2

98.2

96.7

96.3

107.0

103.8

99.0

109.4

105.2

108.6

102.5

102.9

130.7

103.7

100.7

109.2

101.5

四―12表

40年度

41年度

42年度

43年度

44年度

45年度

46年度前期

減価償却費

予算

実績

250

316

350

438

495

1,010

760

897

800

760

800

1,299

550

557

単位万円 1,000円以下切捨

四―13表

40年度

41年度

42年度

43年度

44年度

45年度

46年度前期

実績

予算×100%

126.4%

175.2

204.0

118.0

95.0

162.3

101.2

第五に、経費については、予算をオーバーする傾向があり、この傾向は事業費用中最も甚だしい。

ハ  まとめ

以上の諸点より、次のことが結論づけられる。

第一に、イで指摘したように公益法人における予算の支出は、厳格なる拘束性のもとでなされなければならず、いやしくも一%でも超過することは許されないところである。何故ならば、そうでなければ予算の意義が喪失し、公益法人の財産的基礎が崩壊することになるからである。

にも拘らずロで述べた如き予算の執行状況であることは、予算の執行者たる事務責任者=病院の経理責任者(池永弘充)において、理事会の予算決定が全く無視される状態が常態化しており、病院の経理責任者のワンマン経営=私物化が確立していることを意味する。

第二に、経費の項目中、減価償却費についての予算と実績との実数対比と比率対比を行うと、四―一二表及び四―一三表のとおりであり、甚だしいときは予算に対し二〇四%の実績をうみだしたり、又あるときは九五%と、予算をはるかに下回る実績であつたりするとともに毎年の動きが全くバラバラである。

減価償却費の増大は、設備投資の拡大を意味することは既に指摘したとおりであるが、減価償却費の予算に対するこのような無軌道な予算の執行のあり方は、予算執行者である病院経理責任者(=池永弘充)が全く無定見に無計画的に設備投資を行つていることが明らかとなる。特に四―一二表にみられるように昭和四五年度における減価償却費についての予算に対する実績の隔離は甚だしい。

予算八〇〇万円に対し、実績は何と一、二九九万円であり、その比率は一六二、三%である。病院会計における昭和四六年度の赤字の原因は、昭和四四ないし四五年度の大規模な設備投資にあつたことは(2)項で述べたところである。とすると、昭和四六年度の赤字とは、予算執行者である病院経理責任者(池永弘充)が、全く無定見・無計画的に予算の枠組より逸脱した大規模な設備投資に起因するものである。

<3> 本項における結論

昭和四六年度に生じた病院会計の赤字は究極的には、昭和四四・四五各年度における大規模な設備投資にその原因が求められる。

右大規模な設備投資は、まず予算執行者たる病院経理責任者の予算を無視した独断専行によつてなされた。

このような独断専行に対し、病院経営の最終的な責任者たる理事会は、何らのチエツクをすることもなく放置したばかりでなく、資金の対外的な調達や収支の改善の努力等一切の努力をなしていないものである。

本件は、無責任な理事会の任務放棄と病院経理責任者の独断専行という病院経営の全くのズサンさからの無計画な大規模な設備投資という放漫経営の責任を、医師の人件費の削減に求めたものであつて、その責任は挙げて被告にあり、本件解雇は全く違法・無効である。

2 同1(二)の事実(原告らに対する個別的解雇理由)については、左に各事例につき説明した事実以外はすべて否認する。

(一)  同(1)の各事実のうち

(1) 同<1>の事実につき

昭和四五年一一月頃、三萩野病院に下痢・発熱を訴える患者が入院し、原告秋根が主治医となつた。原告秋根は諸々の臨床所見から腸チフスを疑い、患者から血液を採取し検査室に血液培養及び菌の判定を指示した。

当時検査室には検査技師の資格を持つ者は池永道利検査室主任・三鼓秀雄・室園としえの三氏がいたが、細菌学的検査をする能力を持つ者は室園技師だけであり、彼女が独力でこの種の検査を行つていた。原告秋根は室園技師と連絡を取りながら、その診断の確定を急いだ。血液培養開始日の二―三日後の朝、室園技師によつて施行された諸検査の結果、腸チフスが強く疑われ、その確定診断の検査に必要な血清を北九州市立朝日ケ丘病院に借りに行く必要が生じた。そこで室園技師は朝日ケ丘病院に行く為の病院の自動車を出してくれるよう池永道利検査主任に要請したのである。ところが池永道利主任は「腸チフスなど出るわけがない」と言い「普段の仕事を全部すましてから朝日ケ丘病院に行け」と室園技師に言い、彼女に泣きべそをかかせたのである。丁度その時、原告秋根が検査室の前を通りかかり、泣きそうな顔をしている室園技師から事情を聞き、この場合一刻を争うので医事課職員楠氏に自動車を出すことを依頼し、室園技師を朝日ケ丘病院に急がせた。その日の昼休み、原告秋根は池永道利主任に対して「腸チフスの診断は一刻を争うものであり、室園技師を朝日ケ丘病院に行かせないばかりか、腸チフスなどでるわけがない等の暴言をはくとはもつてのほかである」と厳重に抗議した。その時の池永主任の言い分は「秋根医師が室園技師に直接検査指示を出し、主任である自分を通さないのはけしからん。」というような事であつた。ところで原告秋根のこれについての指示は全て検査伝票を通じてなされており、これは慣行通りである。又、腸チフスの緊急性・重要性から直接の検査施行者室園技師から逐一報告を聞き、次の検査方針を相談し合つていたのである。これは医師として当然なすべきことであり、事実多くの他病院では当り前の事としてされている事である。

ところが池永主任はこのことを指して、自分を通していないと言い、不快に思つたらしいのである。

腸チフスは法定の伝染病であり、その患者は隔離しなければならない。であれば、その診断は一刻を争う性質のものである。本例の場合は、臨床所見・検査所見から強く腸チフスが疑われていたのだが池永道利主任は何の根拠もなく「腸チフスなど出るわけがない」との暴言をはき、確定診断の為の検査の必要性、緊急性を否定し、主任の地位を利用し、室園技師にいやがらせ行為をなしたのである。医療上許すことのできない行為である。

臨床検査技師・衛生検査技師等に関する法律(昭和三三年四月二三日、法律第七六号)の第二条によれば、衛生検査技師は医師の指導監督の下に、その業務を行うことが規定されている。本例の場合は、池永技師は医療上の何の合理的根拠もなく医師の指示に従わないばかりかその妨害を働いた。

(2) 同<2>の事実のうち、逆行性腸透視の際に後藤技師が、被検者(患者)の体の下に新聞紙を敷いていたのを、原告秋根が取り除いたことは認める。

そもそも逆行性腸透視の際に新聞紙を患者の体の下に敷くか敷かぬかということは何ら医療上の意味を持つものではない。検査を行う医師が、それでやり易いか否か、又検査後の処理がやり易いか否かなどで適当に決めればよいことである。原告秋根は新聞紙を患者の体の下に敷くことは患者の体位変換の際新聞紙が散乱しがちで検査がやり難く、又造影剤が一度こぼれればいずれにせよこれを拭き取らねば検査を続行できないので、新聞紙を患者の下に敷く事をあまり好まず、新聞紙を取り除いたものである。

(3) 同<3>の事実につき

昭和四六年一一月頃、脳卒中後片麻痺・糖尿病を主病とする原告秋根の受持ちであつた入院患者が居た。この患者がある朝、食欲不振を訴え、朝食を殆んどとらなかつた為、看護婦の判断で、通常行つているレンテ・インシユリンを患者に注射せず、これを佐藤主任看護婦は原告秋根に申告しなかつた。申告しなかつた理由として佐藤看護婦は「糖尿病患者が朝食をしなければ、インシユリンの注射をしないのが当然のことであり、これは常識である」と述べている。しかし、これは誤つている。

インシユリンにはいくつかの種類があるが、この際使用されたレンテ・インシユリンは、注射後二―四時間でその効果が発現し、最大効果が注射後八―一二時間で現われ、効果の持続時間は二四―二八時間である。

このレンテ・インシユリンは朝食後の血糖値のみをコントロールするのではなく、一日一~二回の注射で一日中の血糖をコントロールするものであつて、朝食を患者が取らなかつたといつて、レンテ・インシユリンを中止することはできない。臨床所見・検査所見から、必要なレンテ・インシユリンの量を判定し、注射しなければならない。佐藤看護婦の「常識」では、朝食をとらずにレンテ・インシユリンをすれば低血糖が生じることを怖れているのであろうが、逆にインシユリンの量が不足の為に高血糖となりこの為に食欲不振を来し、朝食をとれない場合もあるのであり、この場合は、佐藤看護婦の常識とは逆にインシユリンの量を増やして注射しなければならないのである。

佐藤主任看護婦は自分の誤つた医療上の確信に依つて医師の指示の変更を医師に申告しなかつたのであり、その上医療上の検討研究なしに、原告秋根の医療上の行為を不当に非難するのであるからその責任は重大である。

(4) 同<4>の事実につき

昭和四六年一〇月一三日に開かれた評議員会に於て、伊藤哲氏は書記を務め、議事録を作製した。

この評議員会は原告等の解雇を決定したのであるが、その議事録中に於て、伊藤氏は多くの意図的省略と歪曲をしている。

その最たるものは公認会計士木戸氏の発言中に昭和四六年三月期の決算は良好であり、新病棟建築は理事の判断でやれもするし中止もできる旨の発言をしたが、これが議事録からは省略されていることである。この発言は、理事会が決定している「経営不振からの新病棟建築中止→原告等の解雇」という目論見とまつたく相反するものであり、だからこそ議事録から省略されているのである。

原告秋根は伊藤氏と医局横の廊下で出会つた際、木戸発言の記憶の有無を尋ね、憶えているとのことなので後日の為に伊藤氏の署名をもらつたものである。この際暴力行為・大声での脅迫等はまつたくなかつた。

(5) 同<5>の事実につき

昭和四五年九月頃急性肝炎で入院し、原告秋根が主治医となつた患者がいた。

この患者が入院した後、原告秋根は診察し急性肝炎の治療について安静と食餌療法が原則であり、点滴注射や数多くの強肝剤が普通、急性肝炎の治療として行われているが、科学的根拠に乏しいことを説明した。患者は、しかし肝炎の治療として日本においては普通行われている点滴注射をしてくれとの強い希望を持つていたらしくその旨看護婦に言つていたとのことである。しかしその患者はある程度の食欲はあり、輸液の必要性は認められなかつたので、原告秋根は点滴注射の指示は出さなかつた。患者に対して再三診療と治療上の原則についての説明を行つたが納得を得られず、やむなく五%ブドウ糖五〇〇mlの点滴注射をすることにしたが、注射をするのが遅い旨の不満を訴えた為、原告秋根が、治療に対して信頼できないのであれば退院もやむを得ないと患者に言つたので患者は退院したものである。

一般に日本では、急性肝炎に対して点滴注射が、その治療の中軸をなすかのように患者・医療従事者の間で誤解されている。この誤解は、医師にとつては治療上はやり難い点もあるが経営的な意味では点滴注射で収益を挙げられ都合がよいとも言える。しかし医師は言うまでもなくその治療に科学性を要求されているのであつて、誤解に基く患者の要求に易々諾々と従うのでなく、その誤解をとく努力をしなければならない。本例の場合は、原告秋根の努力は実らず残念であつた。

しかし、被告の非難は点滴注射をしなければ治療をしていないかの如く主張し、医学上の誤解にもとずくものであり承服できない。

(6) 同<6>の事実につき

三萩野病院は診療科として、内科・外科の他に小児科も掲げていた。しかし、原告等の就職前には小児科の修練を積んだ医師はおらず、内科医が小児科の診療にあたつていた。

本来、小児科は内科とは異なつた医療分野であり、万止むを得ない場合以外は小児科医が小児の診療にあたる方が良いことは自明である。しかし、三萩野病院には小児科の看板を掲げている為に小児がしばしば来診した。そこで、原告等は北九州市立小倉病院・国立小倉病院・新小倉病院の小児科スタツフに依頼し、週三回の小児科外来を開設した。

これに至るまでの間、原告秋根は小児患者に対してはなるべく小児科医に診てもらうようにすすめた。この際、診察するか、親に会つてからそうすすめた。

(7) 同<7>の事実につき

この患者自治会の申し入れは、患者自治会の幹部が中西理事長に対して口頭で行い、これを池永弘充事務部長が文書とし、原告等に手渡すという形を取つている。

この申し入れが原告等に知らされた後、原告等は患者自治会幹部一同と会談し、互いに了承し合つたのである。これを原告秋根に対する非難として利用するのはもつぱら被告の悪意に依る。

中村氏の往診に原告秋根が快く応じなかつたとの件であるが中村氏は従来から原告秋根の受持ち患者であり、尿路感染症の為、しばしば発熱していた。中村氏と同じアパートに住む鈴木氏が、当日病院に電話し、すぐに往診してくれとのことであつた。原告秋根はこの発熱が尿路感染によるかもしれないので検尿・検血などの為には病院に来てもらわねばならないと考え、鈴木氏に症状を問い合わせた所、すぐに来ないとのことで鈴木氏は非常に不満気であつた。鈴木氏は患者自治会の幹部である所から、この申し入れの文言となつたのであろう。

ところで、最終的には原告秋根は往診に行つたのであるが、原告秋根と患者中村百合子氏はこのことで医師・患者の信頼関係は何ら揺らいでおらない。

さらに付け加えるならば、三萩野病院には当直医は一人しか居らず、往診に医師が出かければ院内は医師不在の状態となるので往診にでることと院内の患者に対する医療とは慎重に配慮されねばならない。たとえ患者自治会幹部が、すぐに往診に来いと言つても医療上の考慮の上決められねばならないのである。

(二)  同(2)の各事実のうち

(1) 同<1>の事実につき

三萩野病院で従来より診療していた患者が虫垂炎で手術の必要があつたが部屋がない事で他の病院に転送せねばならなかつた。それで、救急患者と近くの患者のために外科に一部屋予備室を置くようにできないかと話している時、何を誤解したのか「先生は何て暇なんですか。こんな事を話していると私は仕事が何も出来ない」と原告成瀬にくつてかかつたので、原告成瀬もカツとなつて口論した。その後原告成瀬は、カツとなつたからとはいえ、暴言をはいたのは悪かつたとあやまつてこの問題は治まつている。

(2) 同<2>の事実につき

三萩野病院には手術場・外科病棟がありながら、その主任が未決定であつたので主任を決めて責任体制を確立するよう婦長に助言した事はあるが、強制はしていない。だから婦長が意図した人事が行われ、何等問題は起つていない。

(3) 同<3>の事実につき

薬局より出す包装紙に薬名がなく、その為薬が二重にくばられるという誤りがあつたので薬の包装紙に薬名が書けるように改めたらどうか、と提案したが、皆で話し合つた結果、今迄のままの包装紙でよいが、配り方その他を改善していこうという事で話がつき、何ら問題になつていない。

(4) 同<4>の事実につき

事務の伊藤氏が、病院内の健康診断を受けるように伝える文章に「通達」という言葉を使つていたので同じ働く者同志の書く文章なら「おしらせ」とか「おねがい」とかやわらかくいつたらどうかと助言したにすぎない。

(5) 同<6>の事実につき

原告秋根の云つている事は筋が通つていると思う、と言葉をはさんだにすぎない。

(6) 以上のように原告成瀬は三萩野病院に来て以来、外科の治療上の事で、良き医療、誤りのない医療を行うために積極的に発言して、その是正につとめた。この結果、原告成瀬の在任中は、術前・術中・術後に於て、一例の事故もなく経過した事を誇りに思つており、何らやましい事はない。

(7) 「原告成瀬は、外科の業績向上に全く寄与していない。患者数、手術例数も増加していない」という被告の主張について次の如く反論する。

一般に、外科の手術数は単にその外科医の技倆のみに基くものではない。

たとえ虫垂炎(いわゆる盲腸炎)程度の手術であつても患者にとつて体にメスを入れられるという事は非常に重大な事柄に思えるのである。そこでは患者と、その病院なり医師と信頼関係が十分確立していないとその病院での外科手術は多くはならない。この点、内科の場合と事情が少し異なる。又、虫垂炎にしても最初は腸痛を訴えて内科を受診するのが普通であるし、胃癌の手術にしてもまず胃透視、胃カメラの検査等は普通内科医の仕事(三萩野病院でもそうである)であり、胃癌と診断し、手術を受けるよう患者に説得するのも主として内科医の仕事である。そして一番大切な事は、手術の適応のきめ方如何で手術例数は減りも増えもするのである。日本の外科医はえてして安易に手術する傾向があるので、原告成瀬は診断には完璧を期し、内科的治療法について、内科医師に十分相談した上で、手術の適応をきめるようにしたのである。

さて、原告成瀬は、四六年四月に三萩野病院に正式に就職したのであるが、四六年二月頃より週二回程度、小野医師一人であつた外科体制の応援の為、三萩野病院に行つていた。原告成瀬が三萩野病院に就職する以前の三萩野病院の外科診療についての記述を調べると、三萩野病院は原告成瀬が就職する以前、外科診療に関しては著しく評判を落していたのは間違いない事実である。従つて原告成瀬は全く新規に外科部門を開設する病院に勤めるより、一層不利な情況で三萩野病院に就職したことになる。何故なら、新規に外科診療を始める病院なら、患者のその病院に対する評価は〇であるのに対して、三萩野病院はそれ迄の何年かの経過の中で、外科の評価はマイナスになつているからである。附言すると原告成瀬が就職する迄の数年、三萩野病院の外科診療を一人で常勤していた小野医師に対する看護婦の内部評価としてさえ「小野先生は普通の虫垂炎の手術をするのにも一時間以上も時間がかかる。」といわれていたし、虫垂炎の皮切(皮ふ切開)についても、医学的に誤りというわけではないが、大きく傍腹直筋切開を加えていた。原告成瀬は、応援を含めると、昭和四六年度はほぼ一年間、三萩野病院の外科診療にあたつたことになるのだが、昭和四六年度の外科手術例数は前々年度、前年度に比しふえている。即ち、昭和四四年の手術例数二九・四五年度五五・四六年度七四である。又、原告成瀬が正式の職員になつた四六年四月から四七年一月迄の一〇ケ月の手術例数は六三・四五年四月から四六年一月迄を示すと四五であり、ここでも明らかに増加している。

以上のように原告成瀬が三萩野病院の手術に携わるようになつて以来、それ迄の三萩野病院外科部門の不評判という著しいハンデイを負つていたにも拘わらず手術例数は増加しており、被告の「原告成瀬は、外科の業績向上に全く寄与していない。患者数・手術例数も増加していない」という主張は事実をいつわる不当なものである。

(三)  同(3)の事実のうち

(1) 原告佐藤が医師として未熟であるとの点につき、同原告は、昭和四五年一二月に大学を卒業し、翌年四月の医師国家試験に合格したのであるから、年期をつんだ先輩医師に比し技倆に未熟な点がある事はむしろ当然である。

しかし、同原告は、虫垂炎等の小手術等では実際執刀し、原告成瀬・同小野両医師のどちらかに助手をつとめてもらつたが、原告佐藤が執刀した手術によつて問題が起きた事はない。

又、胃とか胆のう等の比較的大きな手術に際しては麻酔を担当したが、原告佐藤の麻酔によつて手術が出来なかつた等という事もない。

(2) 被告は、原告佐藤が研修に行くという事を採用の条件にしたのに原告佐藤が研修に行かなかつた旨主張し、原告佐藤の勤務態度が不良であつた例証にしているが、そのような約束は採用時に全く為されていなかつた。事実は次の通りである。

昭和四六年六月の給料を払うにあたり、中西理事長は、原告佐藤を、事務部長室に呼び、突然「医師給与規定に定められている研究手当は、未熟だから君には支払えない。そのかわりどこかの病院に研修に行け」と一方的に通告したのである。即ち、原告佐藤へ支払うべき研究手当を出し惜しみ、月給を払う段になつて研修の問題を持ちだしたのである。

原告の秋根・坪井・河野・清水等は週一回大学に研修に行く事を採用時理事会と約束しており、しかも給与には、研究手当が支給されているのであるから、たとえ原告佐藤が研修に行くようになつてもこの研究手当を原告佐藤に支払わないというのは全く不当である。この旨理事長に抗議し、以後、理事会との話し合いでこの原告佐藤の研究費については決着がつかないまま原告佐藤は解雇されたのである。

又、原告佐藤が、採用時研修に行く事を了承したと仮りにするなら、そしてその代償として原告佐藤に研究手当を払わないという約束が成立したとするなら原告佐藤を研修させるべく準備した病院と指導医名、又、病院及び指導医との交渉を示す書類を提出すべきである。更に、原告佐藤が研修に行かなかつたとするならば、病院の管理運営にあたる理事長・病院長は研修に行くよう原告佐藤に注意してしかるべきだがその様な注意を受けた事もない。

原告佐藤が研修する、しないは、医長である原告成瀬と私的に相談した事であり、実際大学の先輩で友人でもある竹下医師が、四六年当時、国立小倉病院の整形外科に勤務していたので週一回の彼の外来診療を見学させてもらつていたのである。

(3) 原告佐藤が医師として未熟である事の例として術后の患者の注射の使用法で、原告佐藤がまちがつた指示を出したとの点については、原告佐藤には記憶がない。

(4) 次に原告佐藤が六日間病院を欠勤したことは認めるが、これは市立結核療養所第二松寿園の閉鎖に反対する為であつた。市当局は入院中の患者を無理矢理退院させようと機動隊まで出動させていた。

小倉地区労働者医療協会寄附行為第六条に疾病者の救済がうたわれており、又当時排菌患者も含めて、約八〇名程の結核患者が三萩野病院で診療を受けていたのであるから原告佐藤も含めて原告等が同療養所の閉鎖を座視する事はできなかつた。

又、理事達の多くが所属する小倉地区労、更に三萩野病院の従業員労組も閉鎖に反対し、閉鎖反対運動に参加していたのである。

原告佐藤が病院を休むにあたり副院長の外科の小野医師・成瀬外科医長には了解をとつてあり、小野・成瀬両医師に負担がかかるにしても、三萩野病院の外科診療に何等障害があつたわけではない。従つて原告佐藤が病院を休む事によつて不利益を被告がこうむつてはいない。むしろ閉鎖反対運動のすすめ方で理事達と原告等との意見が対立していたのである。

四六年一〇月の評議員会の席で、理事長中西実之氏は原告佐藤の欠勤にふれ、つぎのように質問者に答えている。

『松寿園斗争は、組織的に取り組み、特定人が過大に負担してやるべきではない』と。

即ち、被告が原告佐藤の欠勤をもつて原告佐藤へのとがめとするのは三萩野病院の管理運営にあたつている理事達が、三萩野病院の管理運営とは無関係な松寿園閉鎖運動をどうすすめるかという点での意見の対立を、三萩野病院の管理運営の場に持ちこんだ、極めて政治的な意図であると云える。

(5) 原告佐藤は、患者の信頼性が全くないという被告側の主張も全く失当である。

原告佐藤が虫垂炎の手術をした中本茂子さんの父親、及び原告佐藤が麻酔をし、術后の管理を行つた中原宇一氏からの手紙を見れば原告佐藤と患者との信頼関係は明らかである。

尚、原告佐藤は昭和四九年三月と六月、対馬の厳原病院で研修したが、指導医であつた森岡先生の「医師としての佐藤」について述べた文章をみても、被告側の主張が、不当であることは明らかである。

(6) 最後に、原告佐藤が外科の業績向上に全く寄与していないという被告の主張に対する反論は(二)の原告成瀬について述べたところと同じである。

3 同1(三)の事実(解約の根拠)については、そのような事実が存せず、または不当であることは、前述のとおりである。すなわち、

(一)  同(1)の病院経営上やむを得ない事由による整理解雇の主張につき

(1) 経営悪化を理由とする解雇は、懲戒解雇の場合のように労働者の責に帰すべき事由がなく、専ら使用者側の事情にもとづくものである。従つて経営悪化を理由とする解雇権の自由が大幅に企業に認められるものであれば、何ら責に帰すべき事由のない労働者は、雇傭関係の継続について有する法律上の利益を一方的に剥奪されてしまう結果となる。従つて、このような解雇については企業の目的の達成と労働者が解雇によつて生ずる不利益との調和、調整がはかられなければならないことはいうまでもない。

具体的には、

第一に、人員整理による経営合理化については、経営合理化をすることなしには企業の倒産が必至であるという経営悪化の状況を使用者が明確に主張、立証しなければならない。

第二に、人員整理に至るまでの過程において人員整理=労務費削減が最も有効な方法であることを使用者が主張、立証しなければならない。

第三に、人員整理に至るまでの過程において、諸経費の削減、収入増加の努力を講じ、さらに希望退職者の募集や配転その他の方法での人員整理を回避しうる処置が積極的に講じられたものであることを使用者が主張、立証しなければならない。

第四に、人員整理が不可避であることが明確となつた場合に、具体的な人員整理基準が労働者に明示されなければならない。

経営悪化を理由とする解雇にはこのような要件が解雇の正当事由として要求されるべきであるといわなければならない。「杵島炭鉱事件」(佐賀地裁昭和二五年五月三〇日判労民集一巻三号四二三頁)も右理論を支持する。即ち、

「使用者が人員整理をするについては、失業を避けるためにあらゆる努力を払うべきであつて、之が為には自発的退職者の募集、猶予のある地域から比較的労働力の不足している地域への労働者の移動を促進、配置転換、作業方式の科学化等その他経営の合理化等に手段をつくした上で之を為すべく又、会社の経営状態の内容を示して整理の必然性につき組合を十分に納得させ、整理方法についても組合と協議をした上で為すべきことは労働協約の失効の有無を問わず信義誠実の原則からも当然のことといわなければならないし、之等の手段を尽さないときは使用者の誠実性が疑われ、人員整理が真実企業の合理化に基づくものかどうか疑問を抱かれる結果になるのである」と判示するのである。

(2) 本件に即していえば、

第一に、被告に赤字が生じたのは、昭和四六年度単年度のみであり、しかも病院会計において損益計算書において収入が一億七二三八万円の事業規模に対し、赤字の額はわずか六九一万円でしかない。

しかも、比率分析の方法による経営分析によれば、短期的にも長期的にも経営は安定しており、なによりも倒産必至の赤字は存在しなかつたのであり、

第二に、被告に生じた赤字の原因は、無計画な大規模の設備投資による減価償却費の増大により、事業費用にあてられるべき財源が確保できなかつたことにあり、かかる赤字は経営責任に属する問題であつて原告らにその責任は転嫁されるべきものでもないし、人件費の削減により経営合理化がされるべきものではないし、

第三に、被告がなした経営努力とは、池永事務長が原告らに対し医療を全く無視して専ら経営サイドから医療内容に介入し、薬剤の多使用により収益をはかろうとしたことだけであり、諸経費の削減の努力やあるいは被告の設立母体である小倉地区労傘下の組合員に対し、病気になつた場合は三萩野病院で診察をうけるよう情宣しいわゆる市場を開拓する努力もしなかつた。とりわけ被告が財団法人であることから経営原則としてみちびかれる財団法人の財政的基盤を確保すべく要請から、労働組合にカンパをもとめて三萩野病院をもりたてていく努力もしなかつたのであり、しかも経営危機が問題となつている時期には、土地投機に手を出し、しかも一番経営が悪化したとされる昭和四六年度にはこれを転売する努力もしていないのであり、企業側の努力は全くなされず、ただ人員整理により事態を乗りきろうとしたものであり、

第四に、外科医の小野医師が既にその一年前より外科医として開業する準備を行つて昭和四七年三月には退職しているにも拘らず、これについては人員削減の対象とはせずに外科二名の解雇(これによつて三名しかいない外科は閉鎖されることになる)の決定をなしており、原告らに明確な合理的基準が示されてはいないのである。

以上のところより、本件解雇は明白に解雇の有効要件を全て欠いているばかりでなく、かかる事実に即せば前記杵島炭鉱事件の判決が指摘するように使用者の誠実性が疑われ、人員整理が合理化に基づくか疑問を抱かしめるのに十分であつて本件解雇は無効である。

(3) ところで右整理解雇の有効要件に関する考察は、あくまでも営利を目的とする企業を雇傭契約の当事者として設定したものである。

しかしながら雇傭者が営利を追求する企業の場合と、それが医療機関である場合には整理解雇に関する有効要件は同一ではなく、後者の場合は前者の場合における整理解雇の有効要件だけでなく、それに加えて医療機関の特殊性に原因する要件を具備していることが要求されるものであるといわなければならない。

換言すれば病院経営悪化を理由として病院における医師、看護婦等の従業員の人員を整理する場合、その解雇は医療法及びそれに基づく政令等が要求する病院が具備していなければならない基準を違反することは許されないといわなければならない。

ところで医療法施行規則一九条は病院に置くべき医師の員数について「入院患者の数と、外来患者を二・五をもつて除した数との和が五二までは三とし、それ以上一六又はその端数を増すごとに一を加えた数」と規定する。

被告が秋根、佐藤、成瀬の三医師を解雇した昭和四七年二月二六日の時点においては

入病患者数 約九六名

通院患者数 約一三〇名

であり、医療法上要求される医師数は九名であつた。

被告は病院の規模を縮少するための本件解雇において、それまでかろうじて医療法の水準に達していた病院の医療水準を一挙に低下させ、医療法上最低限度の要求である三名の医師を確保すべき要請にも違反し、病院長一名のみという無医療状態を創出し今日に至るまで病院の規模を医療法以下の状態に縮少しているのである。

而して、医師法一条は「医師は医療及び保健指導を掌り公衆衛生の向上及び増進に寄与し、もつて国民の健康な生活を確保するものとする」と規定する。

この規定は医療法において国の責務として、医療施設が設置されることに対応して、直接に医療活動を担う医師の医療行為のあり方についての具体的義務を負わしたものであるといわなければならない。即ち、

医療法が病院に対して病院が最低限確保すべき医療水準を要求しているものであるとすれば、右規定は医師の医療行為が純粋に国民の治療の目的のためにのみなされ、それ以外の目的のためにその行為の内容が左右されてはならないことを要求するものである。従つて医師の医療内容が、経営ペースより利潤をあげる点より決定されることは法律上許されるところではなく、これに対応して病院経営者が医師の医療行為が経済的な採算にあわないことを理由としてその医療行為を排除することは許されないところであるといわなければならない。

(二)  同(2)の事実についても、そのような該当事実が存しないことは前記2で詳述したとおりであり、解雇理由はない。

(三)  同(3)の事実について原告等は昭和四七年二月と八月の解雇の不当性を主張し、解雇が経営上やむを得ないとする被告の主張を批判するのであるから、解雇に至る時点までの経営内容を考察すれば充分であり、解雇後に、被告がいかなる経営状態となつたかは、本来的には無関係である。

しかしながら、被告は、原告等の解雇後の経営状態をもつて、原告等の解雇の正当性を主張しようとしているので、これに反論する。

(1) 原告等の解雇と、それに伴う異常事態が経営に及ぼす影響。

原告等のうち三名が、昭和四七年二月に解雇され、他の三名が、同年七月に出勤停止、八月に解雇されたが、これに伴い、原告等はこの解雇の不当性を患者等に広く訴える一方、被告は、北九州地区労組評議会等の翼下の組合員を延数百名動員し、病院玄関、門前にピケツトをはらせる等の行為をした。これら一連の異常事態によつて昭和四八年三月期の三萩野病院の経営は相当の影響を受けている。

昭和四八年三月期(昭和四七年度)の経営内容を分析する時、これらの要因を考察しないでは正確な経営状態を把握できない。

<1> 診療収入に及ぼす影響。

昭和四八年三月期の診療収入の総額は、一億六、一九五万円である。

ところで昭和四七年二月には医療費の改定がなされている。この改定は一四%から一七%程度の値上げとして、各病院にはねかえるといわれているので、仮に一六%の値上げとする。

ところで、仮に被告が原告等の解雇をなさなかつたとした時の昭和四八年三月期の診療収入はどのくらいとなるであろうか。

昭和四六年三月期、昭和四七年三月期と、原告等が三萩野病院に就職以来、診療収入は微増しているので、この解雇が行われなかつた時の昭和四八年三月期の診療収入は昭和四七年三月期と同じと期待しても良いであろう。

昭和四七年三月期の診療収入は一億七、二八九万円であるので、医療費改定分のアツプを考慮すれば、昭和四八年三月期の診療収入は約二億円と推定できる。ところが、現実には被告は原告等の解雇を行い、昭和四八年三月期の診療収入は約一億六、二〇〇万円である。従つてこの差額約三、八〇〇万円が原告等の解雇とそれに伴う異常事態の結果生じた三萩野病院の収入減なのである。

<2> 人件費に及ぼす影響。

a 原告等の解雇による人件費の削減効果の推定

昭和四七年二月から昭和四八年二月に至る一ケ年間に三萩野病院の医師は大巾な変動があつた。これを列記する。

四七・二・二六 成瀬、佐藤、秋根 解雇

三・初旬 小野辞任

七・一四 坪井、河野、清水 出勤停止

七・中旬 平田就任

八・一〇 坪井、河野、清水 解雇

四八・二    町田就任

四七年二月からはじまる一年間に原告等を解雇することによつて削減された人件費は約一、二〇〇万円となる。

ところで言うまでもなく、これがそのまま人件費の削減となるのではない。原告等の解雇と入れ変りに平田医師を就職させ、続いて四八年二月に町田医師を就職させているので、原告等の給与の合算と平田・町田医師の給与に加えて、この一連の異常事態の故に福山医師に支払われた給与の上積み分が合算されたものの差が、原告等の解雇の結果生じた医師に対する人件費の削減である。

平田・町田医師の給与が各々年間五〇〇万円を下回ることはないと原告等は推定しているのであるが、昭和四八年三月期に平田・町田両医師に支払われた給与を合算すると五〇〇万円を下回ることはないと原告等は推定するので、原告等の解雇による医師についての人件費の削減効果は七〇〇万円を上回ることはないと原告等は現段階では推定する。

従つて、原告等の解雇により、三萩野病院は約三、八〇〇万円の診療収入の減少と七〇〇万円の医師給与の削減を得たといえる。

b 医師以外の従業員の大量の辞任について

昭和四七年二月の原告等の解雇とそれに伴う一連の異常事態の故に看護婦を中心として二〇数名の従業員が、三萩野病院を去つていつた。そして、この欠員はすべては補充されていない。これに伴う人件費の削減効果について原告等は推定する資料を全く持たず、被告に対し求釈明をなしたが昭和四八年三月期と昭和四七年三月期の人件費の比較の際、この要因も考慮しなければならない。

(2) 昭和四九年二月一五日付、監査概要書の批判

昭和四九年二月一五日付で、公認会計士木戸次生氏は監査概要書を、中西実之理事長に提出している。この概要書は、

(I) 設備の拡大を目標として行われた医療陣容の膨張は

(II) 組織面の歪みにより所期の効果を挙げ得ず

(III) 人件費の過大負担となつて財政基盤の弱体化を惹き起すに至りましたが

(IV) 抜本的な対策を講ずることにより、漸く財務面の改善への見通をつけ得る状態になりつつあるものと認められます。

と結論を述べている。

本来、会計監査とは、前記1(五)に於て述べた如く、会計手続き処理の公正さを検証するものであり、経営成績に関する監査人の意見を述べることは、その範囲を大きく逸脱している。したがつてこの監査概要書は、被告法人の評議員である木戸次生氏の経営に関する個人的意見書たる意味しか持ち合わせていない。原告等はこの意見書に以下の如く便宜的に分けた各節毎に反論する。

(I) 「設備の拡大を目標として行われた医療陣容の膨張」

「医療陣容の膨張」とはこの場合、原告等の三萩野病院への就職の事を指すと考えられる。又、「設備の拡大」とは第三期新病棟建設を指すと考えられる。これは木戸氏が被告の主張である「新病棟建設の為の先行投資としての医師の増員」として、原告等の三萩野病院への就職を把握していることを示している。

しかしながら、原告等はこれについては前述の如く

<1> 就職の際に新病棟建設を前提とした話は聞いておらず、

<2> 当時の三萩野病院が法的にも実質的にも医師不足であり

<3> 北九州に於ける医療運動の拠点として三萩野病院に就職した

との主張をしている。

木戸氏は、被告の誤つた主張に全面的に依拠して、客観性を全く失なつている。

(II) 「組織面の歪みによる所期の効果を挙げ得ず」

「組織面の歪み」とは具体的になにを指すのか明らかでなく、また、このことの論述もこの木戸氏の監査概要書を通じて全くない。従つて、このことは推定するしかないのだが、おそらくは、原告等と池永弘充事務部長、理事会との対立を指すのであろう。

「所期の効果」とは何を指すのかは、「医療陣容の強化が予期の成果を挙げ得たか否かについては、結果的には人件費を中心とする経営効率(付表No.1)に表現されると考えられる」との論述があり、このことから、経営効率の向上とそれに伴う経営成績の向上と考えられるであろう。

経営成績の悪化を被告は主張するが、その原因について「組織面の歪み」であるとする木戸氏の意見は監査意見書の範囲を大きく逸脱するのみならず、個人的な単なる意見としても「組織面の歪み」が何故、経営効率の悪化となつたかの経営論上の分析と具体的論述を欠き、経営分析の範囲をも逸脱する極めて政治的な意見書である。

(III) 「人件費の過大負担となつて財政基盤の弱体化を惹き起すに至りましたが」

木戸氏は、原告等の三萩野病院への就職が、人件費の増加となつたと主張するのであるが、これは前述の如く次の点で誤つている。

<1> 直接人件費のうち医師給与が占める割合は原告等の就職以降も殆んど変動していない。

<2> 原告等の平均給与は一般的な医師給与と比べて格段に低い。

この監査概要書の方法論上の致命的欠陥がここに表現されている。即ち、木戸氏は「原告等の為に人件費が増大し、経営成績が悪化した」と主張するのであるが、経営分析の際に、この人件費の内、原告等が関与する割合を全く分析しない。それのみか、人件費中に占める医師給与さえ分析しないのである。医師の増員と解雇を経営上から論ずる時、医師に対する人件費を論じないで全体の人件費を論じることからは何も結論は引き出せないであろう。

(IV)、「抜本的な対策を講ずることにより、ようやく財務面への見通をつき得る状態になりつつある」

「抜本的な対策を講ずる」とは、原告等を解雇し人件費の削減を図ることを指すと考えられる。しかしながら、既に

<1> 原告等の解雇によつて削減された人件費は七〇〇万円を越えることはないこと。

<2> 原告等の解雇によつて生じた診療収入の減少は約三、八〇〇万円と推定されること。

を述べた。このような損失を伴つてもなお、昭和四八年三月期の成績から「財務面への見通しがつき得る」と言うのであれば、原告等の解雇がなければ三萩野病院は経営的に全く問題がなかつたであろう。

この監査概要書は、会計監査の範囲を大きく逸脱していることは既に指摘した。すでに三萩野病院の経営について一定の立場から論じた意見書とみなしうるものである。であるならば、どうしても付け加えねばならない批判点がある。というのは、原告等の解雇が医療上、いかなる意味をもつのかという点である。これについては解雇によつて医療の遂行上、いかなる支障が生じたかということを詳述することは避けるが、原告等の解雇によつて、三萩野病院が医療法が要求する病院としての最低限の医師数三名を下回る二名という医師数で長期にわたり診療を行つてきたことを唯一、指摘する。そもそも、最低限の人員さえ達しない違法な状態にまで医療要員を削減し、経営成績を向上させたとする意見書が許されて良いのであろうか。

(3) まとめ

<1> 四九年二月一五日付監査概要書は、会計監査の範囲を大きく逸脱し、被告の立場に立つ意見書であり、客観性にかける。

<2> この意見書は医師の増員に伴う人件費の増による経営悪化と、医師解雇に伴う人件費削減による経営向上を結論づけているにも拘らず、医師給与の分析をまつたく行わないという方法論上の致命的欠陥をもつている。

<3> 原告等の解雇とそれに伴う一連の異常事態により、四七年度の三萩野病院経営には約三、八〇〇万円の診療収入の減少があるにも拘らず、この意見書はこれに目をつぶり「財務面の見通しをつけ得る」と言うことによつて仮に原告等の解雇がないとした時の被告の経営が良好であつたことを逆に示している。

<4> この意見書は、被告が三萩野病院を医療法の定めに達しない医師数としたことを経営上から是認している。

4 同1(四)の事実(解約の手続)は否認する。

5 同2の事実(原告坪井、同清水、同河野の解雇理由)については、次のとおり、認否弁疏する。

(一)  昭和四七年二月二七日以降の三萩野病院門前の事態について

昭和四七年二月二七日(日曜)は、原告坪井主治医の患者(柏木氏)が大量に下血したため、病院から連絡があり(原告秋根らに対する第一次解雇前も、患者が急変した場合、主治医に連絡があり、主治医がかけつけることにしていた)、原告坪井は緊急外科手術の必要も考えられるため、外科医の原告佐藤を伴つて病院にかけつけたのである。ところが病院では何を予期していたのか、前日から泊りこんでいた従業員及び地区労ピケ要員三〇数名がすでに職員通用門に待機しており原告坪井・佐藤の院内立入りを阻止した。理由は解雇した原告佐藤と一緒には入れないということだつた。原告坪井は患者が大量出血しているため外科医が必要だと説明したが容れられず、佐藤外科医の院内立入りは上記三〇数名が阻止排除したのである。原告坪井だけが院内に入り、柏木氏を診察し輸血等の緊急処置を行つたものである。幸い柏木氏の命はとりとめたものの、この従業員及び地区労ピケ要員の行動は全く患者を無視した行動といわざるをえない。この患者無視の行動にいきどおりを感じ抗議した原告等河野・清水・秋根・成瀬らと上記ピケツトとの間でもみ合いがあつたまでである。

昭和四七年二月二八日以後は、原告等河野・清水・坪井は通常通り午前九時前に出勤した。しかし毎日出勤時にはすでに二〇数名のピケ隊が職員通用門に待機しており、原告河野らはそのピケ隊の間をぬつて院内に入らなければならない異常な状態が続いたのであつた。

解雇された原告秋根らも不当解雇撤回を求めて毎日三萩野病院にやつてきていたが三月七日原告秋根らに対する立入禁止の仮処分が出されてからは病院の敷地の回りに金網・鉄冊が張りめぐらされ原告秋根らは三萩野病院敷地内に一歩も入れない状態となつた。むしろ、被告等は多勢に無勢で原告秋根等を敷地内に引きずり込み、不法侵入ということで警察に告訴するという手段さえとつたのである。

二月二八日以後の病院従業員及び地区労ピケ要員と解雇された原告秋根らとの間の三萩野病院門前の混乱は、院内で診療している原告等河野・清水・坪井とは全く関係がなく、二月二六日の事前予告なしの原告秋根等三医師の不当解雇の結果もたらされたものであり、全て被告側の責任であることを明記しておく。

むしろ暴力をふるつたのは池永弘充事務部長をはじめとする病院側従業員であり、院内で診療に従事していた原告等河野・清水・坪井は病院従業員が原告秋根等に暴力をふるつているという患者からの連絡で門前にかけつけ制止していた位である。

二、三の例をあげてみよう。

四七年四月二七日午前一〇時四五分頃、パートで三萩野病院に勤務していた坪井小児科医が金網前でビラ配りをしていた時、当時三萩野病院労組委員長三鼓が、金網に立てかけてあつた看板をその坪井小児科医(女医)に向けて投げつけた。そのため坪井女医は顔面鼻骨部に全治二〇日間の挫傷を受けるという事件があつた。

又、四月二八日午前一〇時頃、解雇三医師の支援をして三萩野病院裏門でビラ配りをしていた仰木に向つて池永弘充事務部長が自分の運転する軽乗用車ダイハツフエローマツクスでつつこみ、仰木をボンネツトにはねあげてつき落したことがあつた。このため仰木は腰痛・頭痛が続くため約一ケ月間門司労災病院(主治医兼崎)に入院しなければならなかつた。

以上の例からも明らかなように不当解雇に対して当然の権利である解雇撤回のビラ配りをしている原告秋根等三医師及び少数の支援者に対して多勢に無勢で徹底的に排除しようとして暴力をふるつたり、時には挑発したりしたのは池永弘充事務部長を先頭とする病院従業員であつたのである。

原告秋根等の就労斗争は、多くの患者からの署名その他からも明らかなように患者からはむしろ支持されていたのである。

(二)  三日間の外来診療拒否について

原告等河野・清水・坪井は昭和四七年三月二七日から三日間外来診療拒否を行つたことは認める。

しかしこれは原告秋根等三医師の解雇により日増しに院内医療が崩壊していくなかで、原告等の努力にも拘らず理事会・院長等は全く院内医療立て直しの努力を放棄しているために原告等河野・清水・坪井は原告秋根等三医師の復帰こそが院内医療の再建につながると堅く信じてやむなくとつた抗議行動である。もちろん患者の協力を呼びかけ、急変時の保安体制は十分にとつていたのはいうまでもない。入院患者の診療はいつもの様に行つたのである。

(三)  無届け早退について

四七年五月一三日の原告等河野・清水の早退について陳述する。

五月一三日は土曜日であり、原告等河野・清水の早退は午後一時からである。三萩野病院においては土曜日も午後三時まで勤務時間としており、特殊な状態であるということをまず最初に述べておく。

五月一三日午後一時から、原告等河野・清水は、白銀公園で行われた、三萩野病院解雇医師を支援する集会に参加したものである。この時も原告坪井は院内に残つており、異常な時であるため院内医療についてはできる限り万全の体制を考慮していたのはいうまでもない。

しかも三萩野病院はこの日の午後は集会に参加した者が病院におしかけてくるかもしれないとして「外来休診」としているのである。

(四)  無届け欠勤について

昭和四七年五月二二日(清水)・五月二三日(河野)・五月二四日(坪井)の原告等の無届け欠勤について陳述する。

四七年五月二二日~二四日は、久留米市荒木町の三西化学工場による住民の農薬被害の集団検診が行われていた。原告等の欠勤はこの集団検診に参加したためである。原告等清水・河野・坪井が交替で毎日一人ずつ参加し、その日参加した医師は残りの二医師に院内の診療のことは充分依頼するという体勢をとつて検診に参加したのである。

この種の検診に出席することは、地区労病院のたてまえとして当然であると理解しており、事実、昭和四五年一二月から昭和四六年一月にかけて行われた全日自労小倉支部約一、〇〇〇名の健康診断及び春秋の中小企業の定期検診にも勤務時間をさいて行つていたのである。

余談であるが、解雇事件が起る前は医師についてはその当否は別として、欠勤届、早退届を出すということはなされていなかつた。出勤簿には事務の方が勝手に医師の印鑑を押していたのである。中川(前院長)・福山・小野医師等は勤務時間内にゴルフに行つていた事実もある。これらはその当時は問題にもされなかつた。

以上からも明らかな様に、無届欠勤は、(三)の無届早退と同様、正常時には問題にもならないものであり、原告等河野・清水・坪井の診療態度に対する悪意にみちたケチつけと云える。むしろ、原告等河野・清水・坪井が三医師解雇後の異常事態の中で、上記無届早退・無届欠勤以外にはケチのつけようがなかつたことの傍証以外の何ものでもない。

(五)  宿日直拒否の正当性について

原告等河野・清水・坪井三名の解雇理由の一つとして、被告側は右三名による宿日直拒否をあげているのでこれについての原告等側の主張を述べる。

一般的に病院に宿日直医をおくことは、病院が入院患者に対して負つている義務であるが個々の勤務医にはその義務はない。宿日直勤務は一般労働者の超過勤務と同じであり、従つて勤務医が宿日直を行うかどうかは病院側と勤務医との間でそれについてのいわゆる三十六協定を結んだ上で(勿論行政官庁への届出も必要であるが)更にその実施にあたつては宿日直についての業務命令を出して一方的に従わせるのではなく、当該医師の了解を得なければならない。仮に労基法施行規則二三条により、三六協定締結の必要がないとしても同条は労基法三二条の罰則を免れせしめるのみで、労働者に一方的に時間外勤務の義務を負わしめるものでないことは明らかである。

ところで、原告等秋根・佐藤・成瀬三名の解雇が行われる迄の三萩野病院の医師の宿日直体制について述べる。原告等が就職する迄の三萩野病院の宿直、日曜祭日の宿日直は全て非常勤のパート医によつて行われており、常勤医が三名いたにも拘わらず常勤医は宿日直を全く行つていなかつた。

原告等が就職して原告等による患者の立場にたつた院内医療改革の一つとして、原告等が提案して、宿日直は全て常勤医が行うことに改めた。具体的に宿日直表の作成は原告等六名のうちの誰か(主として河野・清水)がその月の二五日頃迄に翌月の宿日直表案を作成し、医局全員の同意を得て決定し、庶務課に渡す(院内にプリントして配布するために)のが職場慣行となつていた。

第一次解雇が行われた四七年二月は二八日迄であり、解雇通知は二六日突然であつたため、三月の宿日直表原案は従来の職場慣行通り、二月二三日頃までに原告等秋根・佐藤・成瀬を含めたものが作成され決定されていた。二月二六日解雇以前の職場慣行にもとずいて二月二三日頃に作成され決定された宿日直表通りの宿日直義務を第一次解雇後も原告等河野・清水・坪井が行うことは当然である。第一次解雇後、原告等河野・清水・坪井に何の相談もなく被告側が一方的に作成した宿日直表に従えという業務命令は、被告側による職場慣行の一方的な破棄であり、それに従わない原告等三名(河野・清水・坪井)を宿日直拒否として非難し解雇理由とするのは全く不当である。

第一次解雇後、被告側が宿日直についての従来の職場慣行を一方的に破棄した事、更に当事者である原告河野・清水・坪井の同意を得ることなく(相談すらしていない)一方的に発した宿日直に関する業務命令は違法・無効なものであつて、原告等は従う義務を負わない。従つて原告河野・清水・坪井がこれを拒否して従来の職場慣行通りの宿日直を行つたことは全く正当であつて非難されるいわれはなく、被告側の不当な業務命令を原告等が拒否したことを解雇理由とすることはできない。

つぎに、四七年六月一一日以降、原告河野・清水・坪井が行つた全面宿日直拒否について述べる。

四七年二月二六日第一次解雇以後、院内の状況は正常な診療業務を行える状態ではなくなつた。

このような深刻な状況を生みだした根源は、原告秋根・佐藤・成瀬三名を不当に解雇したことにある。そこで、原告等は患者のための真の医療の場を三萩野病院に再び取り戻す道は原告秋根・佐藤・成瀬三名の解雇即時撤回、即時診療復帰以外にないと考え、医師労働組合として理事会に度々団交を申し入れた。しかし理事会により一方的に話し合いを拒否され続けた。

事ここに至り、医師労働組合としては超勤拒否に等しい宿日直拒否を、原告等の一人秋根の不当逮捕を契機にして解雇即時撤回・即時診療復帰を要求して行なつたことは全く正当な争議行為である。(その際、患者の緊急事態にはいつでも病院におもむく旨予め入院患者や夜勤看護婦に伝えて患者の保安という点にも配慮した。)

原告等六名全員が解雇されてしまつた後に三萩野病院に就職した平田医師が当直の夜、入院中の高熱発患者を放置したまま長時間にわたり病院を空にして魚町で飲酒し、夜遅く一一時頃にやつと帰院し、患者にもそれとわかる酒気帯び診療をしたことに比すれば原告等の宿日直拒否は、はるかに患者に対する保安配慮をはらつた行為である。

従つて、右全面宿日直拒否は三萩野病院医師労働組合としての適法な争議行為であり、これを理由として解雇することは(二)の外来診療拒否について述べたと同様、不当労働行為として許されないと云わねばならない。

五 原告らの主張(再抗弁)

仮に、被告主張のような事実があつたとしても、本件解雇は左の事由により無効である。

1 解雇権の濫用

本件における原告等と被告との法律関係が雇傭契約であることはいうまでもないところであり、右法律関係の解消(解雇)について正当事由ないしは合理的理由を要する、あるいは解雇権の濫用にあたらない場合に限り解雇は有効であるとする法理(解雇権濫用の法理)が適用されることはいうまでもない。

(1) 労働基準法は、いわゆる労働法上の保護をうける「労働者」については、<1>労務を提供する者で<2>賃金が支払われる者であると規定する(同法九条)。この二つの要件を具備する者が労働基準法をはじめとする労働法上の保護をうけるのであつてこれ以外の事由により労働法上の保護が左右される理由は全くない。同法九条が労働法上の保護をうける労働者については特に「職業の種類を問わず」と規定するのもこの趣旨を明らかにしたものである。

同法八条一三号は、「病者又は虚弱者の治療・看護その他保健衛生の事業」について同法の適用を明らかにするのであるが、病院に雇傭される医師について同法が適用され、労働法上の保護をうけるものであることは、同法八条一三号及び九条より明らかである。従つて雇傭される医師の解雇については、正当事由ないし合理的理由を要し、あるいは解雇権濫用の法理が適用されることは、同法の当然の論理的帰結である。

(2) ところで、解雇に正当性・合理性あるいは解雇権濫用の法理が要求される根拠は、単に解雇が労働者の唯一の生活手段である賃金収入の途がとざされることになるから経済的に優越的地位にたつ使用者の権利の制限のもとで労働者の保護がなされるべきであるとして、純経済主義的に労働力再生産の不可能性に求めるだけでは不充分である。そもそも労働とは、人間と他の動物を区別する唯一のメルクマールであり、労働により人間は自らを豊富化し人間を人間たらしめるものである。つまり労働は文化創造的価値をもつものであり、その故に労働することは自然権としての幸福追求の権利(日本国憲法一三条)でもあり、又社会権的基本権としての労働権の保護をうけるものである(同二七条)。

従つて自ら積極的に文化創造の価値を実現するために自らの意思に基いて選択した労働の場を一方的に剥奪することは、これらの権利を侵害することとなつて許容されざるべきものであるといわなければならない。労働法上の労働者の解雇に正当性・合理性あるいは解雇権濫用の法理が要求されるのは、このような根拠にもとづくものである。

特に本件の場合は自己の信念に従つて選択した労働の場を一方的に奪われる理由はない。

三萩野病院では、原告等が就職する以前においては、<1>地域医療活動への取組み<2>医師不足<3>生活保護層への依存度の高さ等において著るしい立遅れがあり、寄付行為第五条に記載された被告のあり方についての理念・目的は形骸化され風化されてしまつていた。そこでこのような現状を改革するために、中西理事長、原理事、池永事務部長は原告等の招へいをなした。右招へいに基づき原告等は、三萩野病院の医療の現状を改革し、もつて地域医療活動を行うために、そのことを双方了解、合意し病院における医療活動については寄付行為の目的にそう形で行うものであることを確認して本件雇傭契約を締結したものである。

従つて、原告等がその医療上の確信と信念からこのような経過で雇傭契約を締結したものである以上、医療上の確信を実現するために選択した労働の場を一方的に剥奪することはできない。原告等が主張する雇傭関係の継続の欲求は被告が主張する如き主観的信条の次元の事柄ではなく侵すことのできない権利としてあり、このような権利を正当事由なくして剥奪する解雇は権利の濫用であつて無効であるといわなければならない。

而して本件解雇は、原告等が雇傭契約当時のこの合意に基いて医療活動を行つたことが真の解雇理由の一つであるから本件解雇が無効であることは明白である。

(3) また百歩譲つて解雇に正当性、合理性が要求され、解雇権濫用の法理が適用される実質的根拠が、解雇が労働力再生産を不可能ならしめるものであるという経済的理由のみによるものであるとしても、それが本件において解雇に正当性・合理性を必要としない根拠とはなりえないといわなければならない。

第一に、解雇において最も重要なことは、それにより労働関係が中断し、賃金請求権が消滅させられ収入の停止がもたらされるということである。従つて労働力の提供と交換に賃金の支払をうけることになる労働契約締結者は、このような雇傭関係の存続について保護をうける正当な法律上の利益をもつものといわなければならない。

被告は、転職の容易の程度こそが解雇権濫用の法理の実質的根拠であると主張するが、それは解雇に正当性・合理性等が必要とされる根拠ではなく派生的な事情にすぎない。

第二に、使用者からみた場合、労働の態様は単純化し個性は問題とならない。このような場合、ある労働者を解雇し他の労働者でこれにかえなければならない理由は、解雇されるべきものが過失を犯したとか、あるいは労働適格性にかけるとかの場合の外には存しない。特に医師の場合、国家試験により資格が与えられるものであつて労働の質が明確化されているために、個々の個性が問題とされる余地は全くないのである。

以上のところより、解雇に合理性、正当性が必要とされ、あるいは解雇権濫用の法理の適用があることはいうまでもない。

(4) 右に述べたように医師について解雇権濫用の法理の適用を除外するいわれはないが、現在の医師労働界の状況は決して被告のいうように「転職容易」ではないことを付言しておく。いわゆる医師不足の実態は以下のようなものである。

(イ) 日本の医療制度の下では大学病院・国公立病院・一部の私立病院と一般の私立病院・医院との間には医療施設研究施設に格段の差があり、不断の研究を通じて技術水準を確保して社会的義務をはたそうとする医師の求職はおのずから前者に集中することとなる。そして右国公立病院等の医師給与は決して高いものではない。逆に、私立の中小病院・医院・離島・僻地の診療所等は高賃金をもつてしても医師を獲得することが困難になる。

医師の社会に対して負う責務は単に目前の患者をいかに処理するかではなく、前述の如く、人的物的施設を含む医療環境を保障されて行われる絶えざる研究に裏打ちされた信頼度の高い医療の給付をなすことにあるといいうるから、このような問題を抜きにして賃金のみをメルクマールにした転職の難易を云々することはナンセンスである。

(ロ) そのうえ日本の医師界は大学病院を頂点とするピラミツド型階層をなしており、大学教授を中心にした人間関係=コネを利用しなければ条件の良い就職や開業は望むべくもない。この旧弊にみちた医療の現実が、医療産業とのゆ着をもたらし、サリドマイド・スモン・コラルジル等の薬害裁判やイタイイタイ病・水俣病等各種公害裁判において事実を陰ぺいする役割を担つてきたし、医療界内部からの告発者に圧力をかけ、あるいはこれを抹殺排除してきたのである。本件のばあい原告は大学在学中よりこれら矛盾に取り組み、さらに被告病院就職後も投薬・注射中心医療批判等現在の医療に深く喰い込んでいる営利主義を追求し、良心的医療を行おうとしてきたのであるから、被告病院を解雇された現在(病院間の緊密な連絡もおそるべきものがある)転職が容易であるという結論は決して引き出すことができない。

(5) なお被告は医師はそれ自体、経営自体にも責任を委ねられた管理者的立場に立つと主張して解雇権濫用の法理の適用がないことの根拠とする。しかし、右主張は全くの暴論という外はない。

病院と雇傭関係にある医師は、医療行為という労働を労働力として商品交換するものであり、医師自らの意思で勝手にその労働力を処分することができるものではない。医師が管理することのできるのは労働力ではなく労働なのであり、この構造は他の労働者の場合と異なるところはない。この場合、一般労働者では労働力として枠づけられた労働の内容が、例えば機械の部品をくみたてる等単純で定型化されているのに対し、医師は教師と同じく医療についての専門的知識と判断にもとづき医療行為という労働の具体的内容を管理決定する点が異なるにすぎないのであつて自己が雇傭される病院の経営者として経営管理・人事管理・医療事務管理等病院事務全般の「業務を遂行する」ものでは決してない。医師が従業員を指揮監督するのは、診察、治療等の医療事務についてのみであり、それ以外は何ら権限をもつものではない。病院経営者は、それ以外の事項については医師以外の従業員に対して指揮監督権をもつものであるし、医師についても人事管理上の権限をもつものである。しかし、病院経営者は医師が雇傭されることを理由としてその医療行為の具体的内容の決定に対し指揮命令を与えることは全く許されない。

医師は患者自身の健康、生命のために全ての医学的知識を動員して患者の健康、治療のためにのみ行動する法律上の義務を負うものであり、この義務を保障するための医療行為についての医師の経営からの独立が認められるものである。医療機関は医療活動によつて営利を追求とするものであつてはならないし、それ故にこそ医療法において医療法人の設立等が認められる等税法上の優遇処置がなされるのである。従つて経営者としては、医療は非営利的であり社会の福祉に寄与するという医療の公益性・公共性に慮み、そのような医療を保障するために病院経営を安定させるべき義務を負うものである。病院の経営の死命を制するのは経営者自身である。ところが被告においては、建前としては常に地域の生活保護者等の低所得者、貧困者のための医療をうたいながらも実態は、専ら経営安定という転倒した観点から多量の投薬、注射により病院経営を行い、低所得者をはじめとする人々の犠牲の上になりたつてきたものであつた。そしてこれに味をしめて池永事務部長は、原告等に対し医療の実態を無視して専ら経営的考慮のみから、薬剤等の使用量を増加させるように指示する等の行為に出たものである。

さらに被告は、医師の医療活動の中心であることから医師を病院経営の管理者たらしめようとしたのである。「医療機関において診療行為のみならず、経営自体にも一定の責任を委ねられた管理者的な立場」にさせようとしたのは、被告の側である。医療のあり方についての寄付行為の目的にもとる被告病院経営者のその主観的願望から、医師が管理者的立場にあるという事実を主張し、しかもそれが病院一般の普遍的事実であり、従つて医師は経営者に対し絶大な力をもつものであり、従つて解雇には合理性、正当性を必要としないと主張する被告の論理は笑止千万の外はない。

原告等はこのような被告の医師に対する位置づけを拒絶してきたことはいうまでもない。昭和四五年一二月一日管理部会を脱退した事実はこのことを証明する。

(6) 経営悪化を理由とする原告秋根らに対する解雇が何ら正当事由を有せず、解雇権の濫用であることは前記四(被告の主張に対する認否)の3(一)で詳述したとおりであるから、これをここにも援用する。

2 医療法の医師定数違反の解雇

現行医療法は、病院の設置については許可主義をとつており、医療法及び同施行規則は一定基準を病院が満足していることを要求する。この法律上の要請によるならば、一旦病院に医師が確保された後において医師の員数を減員する場合には、その減員によつて医療法及び同施行規則の基準を下回る員数となることは許されないところである。而して、それは被告が主張する如く行政庁の病院に対する指導監督上の問題だけでなく病院経営悪化という使用者の事由による医師の人員削減の場合において最低限を画するものであるといわなければならない。その理由は既に前記四(被告の主張に対する認否)の3(一)で詳述したとおりである。被告は、病院の医師不足の事実を根拠として医療法違反にはならないと主張するが、原告らは一旦確定した医師の員数の減員の場合には医療法違反の減員は許されないことを主張しているのである。

本件の場合、原告秋根ら三名の第一次解雇直前の三萩野病院における医師の員数は医療法施行規則に定める員数にわずかに及ばない程度であつたが、右三名の解雇によつて同規則が要求する員数を大巾に下回り、原告坪井ら三名の第二次解雇により病院としての最低限の員数をも下回つた。

あらかじめ足りていた医師の員数を経営上の必要から医療法、同施行規則の要求する員数をはるかに下回るものとすることは明らかに違法行為であり、従つて本件解雇は民法九〇条により無効である。

3 解雇決定手続の違法

(1) 被告においては、財団法人の運営についての最高意思決定機関は理事会であるとされている。(寄付行為二三条及び理事会規定六条)

原告らの解雇の決定は、右理事会の決定事項であるから右決定が有効たるには、その理事会が適法に成立したものであることを要し、それに反した決定は無効であるといわなければならない。

(2) 而して、被告においては理事会規定第三条において理事会の開催においては、全理事に対し、理事会の議題とその開催場所日時を明記して、通知しなければならないとされている。

例えば商法においては株主総会の招集手続及びその決議の方法が法令や定款に違反した場合等には取消されるべきものとされている。商法における株主総会の開催手続に違反した場合の法律効果についての規定は、財団法人における理事会の場合にも準用されなければならない。むしろ、財団法人は社団法人とは異なり、社団法人の構成員の意思によつて運営がなされるわけではなく財団法人の運営を全面的に理事に委ねなければならず、違法になされた理事会の行動について利害関係人はその取消を求める法的保障はないのであるから法令及び寄付行為に違反した手続でなされた理事会は取消しうべきものではなく無効であるといわなければならない。

民法五三条は、法人の理事はその事務を遂行するにあたつては、定款や寄付行為に違反してはならないとされている。これは、財団法人においては寄付行為に違反した理事会の決定は手続面に関するものであろうが実体面に関するものであろうがすべて無効である趣旨であるというべきである。寄付行為に反する理事会の決定は、民法九〇条に抵触するものであるといわなければならない。

(3) ところで理事会は本件解雇の決定にあたり、反対の意思が予測される原功、上野博郷両理事には理事会の開催について何ら通知しなかつた。

このように本件解雇について決定された理事会は寄付行為に違反したものである。

(4) 従つて、本件解雇は違法な法律行為であり無効である。

4 不当労働行為

(1) 昭和四七年二月二六日になされた原告秋根らに対する第一次解雇は無効である。その理由は既に述べた。原告坪井らの診療拒否及び当直拒否は、この無効な解雇の撤回を求めるためになされたものでその目的において正当であることはいうまでもない。

(2) 而して、右目的を実現するために原告らは、再三再四にわたつて被告に対し右解雇の撤回を協議するための団体交渉を申し入れた。

しかしながら、被告は団交場所を病院内に指定し、かつ交渉当事者については第一次解雇者を排除するという制限をなして右団交を拒絶した。右団交拒絶は、不当労働行為であることはいうまでもない。

何故ならば、交渉当事者についてそれが部外者であることだけを理由として拒絶することが許されないことは判例通説であるばかりでなく、被解雇者を排除した団体交渉それ自体ナンセンスであるからである。しかも被告は、第一次解雇以降地区労のピケ要員一〇数名を病院内に常駐させ、その物理力をもつて原告坪井らの診療活動を妨害するだけでなく暴行を加えてきたのであつて、このような病院内の被告の暴力的支配が存する限り労使対等で話し合う団交の前提条件が全くないから団交場所の指定も全く正当理由がないからである。

(3) このような団体交渉を原告らが要求することは全く正当である。そもそも憲法二八条で保障された労働三権の権利の主体は、個々の労働者、国民に一人ずつ帰属するものであり、労働組合が団体交渉権をもつものは、このことを前提としてそれを組織的に強化するために外ならないからであり、手段により目的の意味が阻害されてはならないことはいうまでもないところである。

(4) 他方、第一次解雇以降被告は自らの手で病院の医療を荒廃破壊させてきたことは、前に主張したとおりである。ピケ要員の病院内常駐による原告らに対する暴言、つるしあげ、暴行、そして医療活動の阻害、業務命令による一般職員に対する原告らのつるしあげの強要、そして診療行為に対する職員の一切の非協力等々枚挙にいとまがない。このような被告の反医療活動は患者の批判をうけるところであり、被告において診療拒否等を解雇の理由として主張する資格はない。それはクリーン・ハンドの原則に反する。

(5) このような状態であり、第一次解雇以降は三萩野病院はピケ要員の常駐による事実上のロツク・アウト体制にあり、既に事実上の争議状態に被告の側から突入していた。従つて被告において原告らの行動は予見しえたものでもあるし、外来診療拒否については、既に当直拒否をしていた事実をふまえて重大なる決意で臨むことは事前に通告していたのであり、これについて批判される理由は全くない。

(6) 宿当直拒否が正当であることについては、既に詳述したとおりである。即ち、それは雇傭契約の内容として義務づけられたものではなく、むしろ就職前には常勤医によつて行なわれていなかつたのを原告らの院内改革の一環として自発的に行つたものであるからである。被告は、労調法を根拠に違法性を云々するが、その対象の問題を生ずるのはせいぜい外来診療拒否のみである。しかし、これについては事前に通院してくる患者にはそのことを通知して患者の不測の事態を回避する体制を準備しており、しかも患者の生命・健康に影響を及ぼすおそれの大きい入院患者には院内医療を続行していたのであり、実害は生じていないのである。又行政官庁より制裁・注意をうけたこともない。

(7) 以上のとおり、原告坪井ら三名に対する第二次解雇は、原告秋根らに対する第一次解雇後において、原告坪井ら三名が医師労働組合活動としてなした一連の争議行為に対する弾圧であつて、不当労働行為であり、無効である。

六 原告らの主張に対する認否

1 同1の事実(解雇権の濫用)につき

一般に、労働者に対する解雇の有効要件として「合理的理由」ないし「正当事由」が存することを要求し、これを欠いてなされた解雇を解雇権濫用として無効とする考え方は、今日、学説判例において定着している考え方である。こうした解雇権濫用の法理が承認される根拠は、あくまで労働者一般のおかれている社会的経済的条件に対する実質的考慮にほかならない。すなわち、一般的に解雇はそれ自体、労働者の唯一の生活手段である賃金収入の途をとざすものであるのみならず、今日の我国の経済的社会的条件の下では、労働者は、ある企業よりいつたん解雇されると再び従来と同一の労働条件をもつて別企業に雇用される機会を得ることはきわめて困難な状況にあることから、多かれ少なかれ、労働者の生存に脅威を与えるものであり、他方、使用者は、一般に労働者に対して社会上、経済上、圧倒的に優越する立場にあることから、労働者の生存確保の要請のためには、その解雇の自由につき一定の制約を受認すべきであるとの考え方が解雇権濫用の法理の実質的根拠なのである。

ところで、本件において原告ら医師の解雇につき、右の解雇権濫用の法理をそのまま適用できないことはいうまでもない。

まず一般論として、医師といえども、他人との間で雇傭関係が成立する場合は、法律上は労働者といえるが、実質面から考慮すると、そのおかれている社会的、経済的条件は、労働者一般のそれとは質的に異なつている。

第一に、今日、我国において、医師は、開業医、勤務医等を問わず、経済的社会的にみて、特権的地位を享有し、いわば、「恵まれた優雅な」階層を構成していることは、衆知の事実であり、社会科学的意味における労働者階級に属する者でないことはもちろんである。

人の生命、健康を確保するという医師の業務に対する高い評価に加えて、医療の社会的需要に対する医師の絶対数の不足は、一般の労働者の賃金とは比較にならない高額な報酬を医師に保障しているのが実状である。本件において原告らが被告より支給されていた給与も、原告らの年齢、経験、勤続年数に照し、当時の一般の労働者の賃金水準などは、その足元にもおよばないほど、破格に高額なものである。

それに、多数の無医地区の存在、医師の絶対数の不足、が社会問題となつているように、公的医療機関たると民間医療機関たるとを問わず、医師の求人難が常態化していることからいわゆる勤務医が雇傭関係の消滅により、ある職場を失つたとしても、再就職あるいは開業の途は容易であり、むしろ勤務医の場合、一定の職場に長期間にわたり定着する例は少く、流動性がきわめて高いのが現実の姿であり、転職による収入の低下もありえない。非常勤あるいはパートのアルバイトの需要もきわめて高く、その報酬もきわめて高額である。したがつて解雇による経済的不利益、生活上の不安など考える余地はないといえる。

第二に、医師は、雇傭主との関係において、(とくに本件三萩野病院のような小規模の民間医療機関においては)一般の労使関係と異なり、対等もしくはそれ以上の強力な地位に立つものである。医療機関において主導的役割を果すのは医師であり、医師は、こと診療行為の内容に関しては、自らの専門的判断にもとづき業務を遂行するとともに、他の従業員を指揮監督する地位にあり、雇傭主は通常、これらの行為に関して、医師に直接指揮命令を与える能力も権限もない。医療機関の本来の業務である診療行為は雇傭主の支配の及ばない、医師の独壇場である。そして、今日の医療制度、保険制度の下では、医師の診療行為の内容は、医療機関の経営それ自体に深くかかわり、その死命を制するものである。

こうした意味で、医師は、医療機関において、診療行為全般のみならず、経営自体にも一定の責任を、委ねられた管理者的な立場に立つといえるのである。このことから、医師は雇傭主に対し、絶大な力をもつことになり、このような地位は、一般の労働者の使用者に対する地位とは質的に異なるものがある。

次に、本件に即して考察すれば、三萩野病院を設置経営している被告は、正味財産三、七八〇万円(昭和四七年三月三一日当時。法人、病院会計合算。)程度の小規模の財団法人であり、労働者、低所得者のための医療、社会福祉事業を行うことおよびそのために、三萩野病院を設置経営することを目的としている。そして同病院は、開設以来主として地域の生活保護者等の低所得者、貧困者の間で、良心的な医療活動を積極的に行い、これらの階層の人々に親しまれ、その本来の役割を果しており、昭和四二年四月以降は、許可ベツド数八四床、職員数六〇数名程度の小規模の病院であるが、経営主体たる被告財団法人の前記財産的規模からして、また医療法上、公的医療機関に対して認められるような国庫補助などもないことからして病院としての経営基盤はきわめてぜい弱で不安定なものがある。他方、原告ら医師にとつては、同病院は、「再来患者が多く、病状は慢性で、手術例数も極めて少く、学問的関心を満足させる症例は少く、研究するにふさわしくない病院」(原告ら自認するところ)であり、原告らの相対的に未熟な医師としての技術を向上させることは期待できないところである。

したがつて、原告らが被告との間で雇傭関係を長期に継続し、三萩野病院で診療業務に従事することによつて得る利益はほとんどなく、かえつて、不利益を受けることになる。仮に原告らが、そのような被告との間の雇傭関係の長期の継続という欲求をもつていたとしても、それは原告らの独自の主観的な信条の次元の事柄であつて、雇傭関係上法的な保護に値する利益ではない。

以上述べたところから、本件原告らの解雇につき、労働者の解雇一般に認められる解雇権濫用の法理を適用すべき実質根拠はなんら存せず、被告において大巾な解雇の自由が認められるべきである。

原告らは本件解雇が無効であるとして、その理由をあれこれ主張しているが、これらは要するに、原告ら医師の解雇を、その実質的差異を無視して労働者の解雇一般と同列に論じているにすぎず失当である。

原告らは、一方では、前述した労働者一般とは異質な、医師としての特権的優越的地位を保有し、これをふりかざしながら、他方では、地域の低所得者、貧困者層のささやかな共有財産ともいうべき三萩野病院を相手に、経済的弱者たる労働者一般に認められる法的保護を全面的に要求しているのであつて、全くあつかましいかぎりといわなければならない。

結局、本件解雇の有効、無効は、せいぜい、本件解雇が著しく不合理なものとして、一般的な権利濫用性を肯定するに足りるだけの特別な事情の存することが、原告側において積極的に立証されているかどうかによつて決せられる問題である。

後述するとおり、本件解雇について、右の事情は証拠上全く認められず、かえつて、病院経営上やむをえない事由にもとづくものであることが明らかであり、権利濫用性を問題にする余地は全くない。

また、原告らについて、就業規則中の解職条項(一五条)の適用があるものとしてもその解職条項に該当する事由の存否の判断にあたつては前述した原告ら医師のおかれている労働者一般とは異質の、特別な条件はそのまま考慮すべきは当然であり、本件解雇につき、一般的な権利濫用性を否定するに足るだけの一応の理由があれば、(仮にそれが医師以外の他の従業員の場合であれば、解雇に値しないささいなものであつても、)解職条項への該当性は認められるべきである。

2 同2の事実(医療法の医師定数違反の解雇)につき

確かに医療法二一条一項は「病院は省令の定めるところにより左の各号に掲げる人員及び施設を有し且つ記録を備えて置かなければならない……」と規定しその一号としてさらに「省令を以つて定める員数の医師、歯科医師、看護婦その他の従業者」を掲げている。

そして同条二項においては同条一項各一号の違反に対して自ら罰則を設けることをせず罰則を設けるかどうかまで政令に委任している。

この趣旨は要するに医療法は病院については医師その他の人員施設を必要とするとしながらも医師その他の人員についてはいかなる態様で、いかなる内容の規制をするかを省令に委任し、罰則によるその強制の当否を政令に委任していることにほかならない。

そしてこの規定を受けて、医療法施行規則一九条一項は「法二一条第一項第一号の規定による病院に置くべき医師、歯科医師その他の従業者の員数の標準は次の通りとする」と規定し、各号において患者数その他を基準にした医師その他の病院従事者の数の算出方法を定めており医師等の定数を絶対的に守らなければならない基準として設定せず、あくまで標準としているのであり、これは同規則二〇条の物的施設についての規制のし方と根本的に異つている。そして医療法施行令も右一九条に関する罰則は定めていない。

右規則がこのような規定のし方をしているのは病院における医師その他の職員の定数につき絶対的基準を設定してその確保を強制することは医療の需要に対する医師等の絶対数の不足経営実体の経済的基盤の多様性等の社会的現実からして適当ではないとの判断の下に一応の標準を設定して弾力的運用の余地を認めたうえ、行政上の指導監督を通じて規制していこうというものである。現実に民間の小規模の医療機関としての病院において医療法施行規則の医師数の標準を充しているところはほとんどない。したがつて医療法施行規則の医師定数は単なる病院に対する行政庁の監督指導の標準であつてその責任と判断において弾力的運用を容認しているものでありそれ以上のものではない。もし同規則上の医師定数を法律上の義務として守らなければならないとすれば同規則の医師その他の職員数の標準は前年度における患者数を基礎に算定されるものであるから、患者数の減少により医師数を減少させることは不可能となり民間病院の医療自体が成りたたないという不合理な結果となるであろう。この意味で病院における医師の減員については同規則の標準を下まわる結果となつたとしてもそれは行政庁の病院に対する指導監督上の問題であつて勤務医師の減員のための雇傭契約解除の効力まで左右する標準ではない。

ましてや勤務医師に対する個別的雇傭契約の解除の効力にまで影響を与えるものではない。

昭和四七年二月二六日付で原告秋根外二名を解雇した直後の時点においても三萩野病院の常勤医師数は五人であり、許可病床数は九四床であるから一〇〇床当りの医師数は五・三二人となり、「全国公私病院連盟」等が行なつた昭和四八年病院経営調査の平均水準を上まわつていることは明らかである。(この平均水準自体医療法施行規則が標準として設定する医師の定数をはるかに下まわつている。)したがつて前記三名の医師の解雇による常勤医師数の減少をもつて不合理としまた右解雇を公序良俗違反であるとする原告ら主張は失当である。

なお、原告坪井外二名に対する第二次解雇はいわゆる個別解雇であるから同様の原告主張は問題にもならない。

3 同3の事実(解雇手続の違法)につき

原告は、本件解雇(第一次、第二次)を決定した理事会の開催にあたつて原、上野両理事に対する招集通知を欠き、これは「理事会規定」三条に違反するから右理事会決定は無効であり、本件解雇も無効であると主張するが全く理由がない。被告法人の寄附行為上は、理事長が対外的に法人を代表して法律行為を行なう権限を有し、職員の採用、解雇の意思表示をする権限についてはなんらの制約を受けることはない(理事会の決議を要するともされていない)。

原告らの主張する「理事会規定」はそれ自体寄附行為の内容をなすものでもなければ、その委任を受けて制定された法規範でもなく、単に法人の内部的な意思決定の手続に関する理事会における内規ないし申合わせとしての性格を有するにとどまるものであつて、法人が対外的に行なつた法律行為の効力とはなんらのかかわりをもつものではない。

それに、原告らは理事会の構成員ではなく被告法人とは単に雇傭契約の相手方たる地位を有するにすぎないのであるから被告法人の内部的意思決定における単なる手続上の瑕疵を主張する利益をなんら有しないことはいうまでもない。

この一事をもつてしても、原告らの主張が失当であることは明らかである。

なお、念のため附言すれば前記上野、原両理事は昭和四六年一〇月一三日の評議員会の後は、理事長がそのつど再三にわたる招集通知をしたにもかかわらず理事会に一切出席しなくなりしかも理事長に対し辞意を表明していたものであり、本件解雇を決定した各理事会に出席することは到底期待できず招集通知などは無意味であつた。本件解雇を決定した理事会開催にあたつてこのような両名に招集通知をしなかつたからといつて、「理事会規定」に実質的に違反するものではなく、解雇の内部的な意思決定手続に瑕疵があつたとはいえない。

仮に瑕疵があるとしてもそれは単に形式的かつ軽微なものであり前記理事会においては、前記両名を除く全理事(八名)が本件解雇に賛成していることからして、理事会決議の結果にはなんら影響を及ぼすものでもなく、また、右両名自身がその後理事として理事会決定の手続上の瑕疵を主張してその効力を争つた形跡もないのであるから、理事会決定自体の効力を失わせるほどの重大な瑕疵とは到底認められない。

4 同4の事実(不当労働行為)につき

原告坪井ら三名が診療業務を放棄したことは既に三の2(原告坪井、同清水、同河野の解雇理由)において詳述したとおりであるが、こうした原告坪井らによる一連の常軌を逸した診療業務の放棄は、病院全体の診療体制を根底から破壊するものであり、患者の生命、健康に重大な危険をもたらすものであつた。ことに、当直勤務の拒否は、病院長一人に長期間にわたり、ほとんど連日の夜間の宿直、日曜・祭日の日直勤務を余儀なくさせるもので、その結果、福山病院長は、七月初旬になると、心身ともに疲労の極に達し、患者に対して責任をもつて診療を行うことが困難となつた。そして自分自身もいつ過労で倒れるかわからない状態となつた。こうした事態になつても、右原告らには、当直拒否をやめる気配は全くみられず、かえつて診療拒否を拡大させる可能性すらあり、被告理事会の再三の警告も無視された。

しかも、原告らおよびその支援グループは、被告が応援を依頼したパートの当直医に対しては、病院に当直医として来ることを断念するまで私宅へおしかけ、面会を強要し、ニユースカーにより近隣にひぼう中傷の宣伝を行つたり、脅迫電話をかけるなどの、徹底したいやがらせを病院の内外で続けたのである。

こうした原告坪井、同河野、同清水らの一連の行為は、医師としての最低限のモラルさえふみにじつて、病院の診療業務を阻害するもので、病院の職員および患者の強い憤激と不信をかつたことはいうまでもない。

以上の経過から被告理事会は、原告らを医師として勤務させておくことは、不適当であり、病院の存続すら危うくするものであると判断し、八月一〇日、原告坪井、同河野、同清水に対し、それぞれ、三萩野病院において医師として勤務する契約を解除する旨の通知を行つたのであつて、これが不当労働行為でないことは明らかである。また団体交渉を拒絶したこともない。

第三証拠<省略>

理由

第一  原告秋根、同坪井、同清水が昭和四五年九月一日に、同河野が同年一〇月一日に、同成瀬が同四六年四月一日に、同佐藤が同年六月一日に、それぞれ被告に雇傭され、以来被告の経営する三萩野病院の医師として勤務していたこと、被告が昭和四七年二月二六日に原告秋根、同佐藤、同成瀬に対し同日を以つて同原告らとの各雇傭契約を解除する旨の、同年七月一三日に原告坪井、同河野、同清水に対し同日を以つて同原告らの出勤を停止する旨の、同年八月一〇日に原告坪井、同河野、同清水に対し同日を以つて同原告らとの各雇傭契約を解除する旨の、各意思表示をしたことは、いずれも当事者間に争いがない。

第二  そこで、まず原告秋根、同成瀬、同佐藤に対する解雇(第一次解雇)の効力について判断する。

一  解雇に至る経緯

当事者間に争いのない事実および成立に争いのない乙第一ないし第七六号証、第七七号証の一ないし五、第七八ないし第八二号証、第八三号証の一ないし一〇、第一一三ないし第一一五号証、第一七二号証の一ないし九、第一七三号証の一、二、第一七四号証、甲第一四、第一五、第一八、第二九、第三二、第四二号証、第四五ないし第四八号証、第五二号証、第五四号証の一、二、第五六ないし第五九号証、第六三号証の一、二、第六四号証の一ないし四、第六七、第八六号証、第九三ないし第九五号証、第一〇二、第一〇三号証、成立に争いのない乙第一三〇号証によつて真正に成立したと認める乙第八八号証、証人池永弘充の証言によつて真正に成立したと認める乙第一三一ないし第一四〇号証、第一四五号証、証人市橋昭平の証言によつて真正に成立したと認める甲第一〇一号証、原告秋根本人尋問(第一回)の結果によつて真正に成立したと認める甲第九九号証、原告成瀬本人尋問の結果によつて真正に成立したと認める甲第四〇号証、弁論の全趣旨によつて真正に成立したと認める甲第九六、第一〇〇号証、証人市橋昭平、同池永弘充、同浜田勝憲の各証言、原告秋根(第一回)同成瀬各本人尋問の結果を総合すると、次の事実が認められ、右各証拠のうちこれに反する部分は採用できず、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

被告は、昭和三九年一〇月、小倉地区における労働組合の地域組織である小倉地区労働組合協議会(通称小倉地区労)から基本財産の寄付を受けて設立されたもので、労働者・低所得者のための医療、社会福祉事業を行なうことおよびそのために、三萩野病院を設置経営することを目的としている。

三萩野病院は、開設以来今日まで名実ともに勤労者・低所得者のための医療機関として、これらの階層の人々に親しまれてきている。すなわち、一般の医療機関においては、かつて、生活保護者、日雇労働者等の患者が歓迎されず、また差額ベツドの存在等により、これらの階層の人々がこれを利用するには障害があつたが、三萩野病院はこれらの患者の診療を積極的かつ良心的に行ない、差額徴収なども一切しなかつたために生活保護者、日雇労働者等の間で親切で良心的な病院として好評を博し入院、外来ともこれらの患者が大半を占めるに至つている。さらに、病院は昼間に勤務する労働者のために夜間診療体制を整え、不採算医療であるリハビリテーシヨンの設備を設け、無料ないしは低料金の健康診断を行ない、身寄りのない重症の入院患者には病院負担で付添婦をつけ、また入院環境と外来環境の改善につき、患者自治会等としばしば話合いをもつなど一般の医療機関とは異なつた、特色のある経営を行なつてきた。他方病院の規模と内容は、開設当初は、内科・小児科を有し、許可病床が三七床程度であり、その後第一期、第二期の病棟建設を経て内容、規模ともある程度充実し、昭和四二年四月の第二期病棟建設後の時点では、八四床の許可病床、約六〇名の職員、内科四名、外科一名の医師(非常勤を含め実人員に換算で)を有する程度となつたが、まだまだ小規模の病院であつた。

そこで被告は昭和四三年八月の臨時評議員会において「一、第三期病棟建設を行なう事によつて地域医療の中の立場を強化する。二、安全センターを設立して、労働災害、職業病問題に取り組む。」等の決議をし、昭和四五年五月には安全センターの常任者を決定して具体的な活動に入るとともに、第三期新病棟建設計画も具体的に進めることとなつた。この第三期病棟建設計画は、地域住民に対し、より充実した医療を提供し、病院職員の労働条件を確保するため、老朽化した病院建物を増改築して、医療施設を拡充し、病院経営を適正規模に拡大することを目的とし、完成後は、ベツド数を一六〇ないし一七〇床、職員数を約一二〇名とし、内科、外科、小児科、整形外科をおこうというものであり、さらに、労災、職業病問題にとりくむ安全センターの活動を通じてできれば将来労働医学研究所を病院内に設置しようとの要望も含んでいた。

ところでこの計画を実現するにあたつては、医療スタツフ、とくに医師の確保が不可欠であり、被告は、前記計画の概要では、完成後は一〇名ないし一一名の医師を必要と考えたのであるが、三萩野病院においては、大学医学部等からの、通常の医師の供給ルートを欠いており、医師の確保はきわめて困難な状況にあつた。しかし、被告は昭和四五年五月頃、たまたま、九大研修医ルーム(事実上青医連のメンバーで構成)から三萩野病院に当直医としてアルバイトに来ていた医師を通じて、右研修医ルームの就職担当者を紹介され、同人と数回接衝を重ねた結果、原告秋根、同清水、同坪井、同河野らの希望者がいるとの連絡を受け、同人らと直接交渉することとなつた。

しかして被告は、原告らと直接交渉を行うに当り、原告秋根康之ら青医連所属医師が医療について有する考え方に深い理解と認識を持たない儘、極く一般的に三萩野病院における医療の理想と現実を説くと共に前記の新病棟建設計画の概要を説明し、当該計画実現のために原告らが是非共三萩野病院に来て欲しい旨懇請し之に対し同原告ら四名が四名一組でなければ就職できない旨述べたところから、被告側としては、当時三萩野病院には、実人員に換算して内科四名、外科一名の医師がおり、その規模からして必ずしも四名もの医師を必要とする状態になかつたが、右の新病棟建設計画実現のため敢て四名全員の採用に踏み切り、原告秋根、同坪井、同清水は昭和四五年九月一日から、同河野は同年一〇月一日から夫々三萩野病院内科医として勤務することゝなつた。

そして右採用交渉の過程において、原告らは自らが主に同計画の実施に必要な医師の増員として先行投資的に採用されたものであることを充分知悉していたものである。

ところで、前記四名の原告が、三萩野病院に常勤医師として勤務するようになつて以降同病院の経営収支は急速に悪化することとなる。

すなわち昭和四五年度下半期(昭和四五年一〇月一日~四六年三月三一日)には約九五〇万円の純損失を計上し、同年度上半期(昭和四五年四月一日~九月三〇日)に計上していた純利益約九四〇万円で埋め合わせてやつと昭和四五年度はほぼ収支ゼロで均衡する状態を保ちえた。

この四五年度下半期のような収支の悪化が将来にわたつて続くとすれば、病院経営は破綻し、被告の財団法人としての財政基盤のぜい弱さからして、新病棟建設はおろか、病院の存続すら不可能となることは必至であると考えた被告は昭和四六年二月に人員増をともなわない病床増を一〇床行ない、病院職員の労働を強化するという方法で当面の経営収支の改善を図るとともに、同年三月には二回にわたり医師、病院職員による全体集会をもち、病院を存続させるかどうかという深刻な議論を行なつたところ、職員全員による三萩野病院を存続させるとの強い意思表示があり、また前記四名の原告ら医師も、病院の経営危機打解のために協力する意思を表明し、「外科の充実によつて経営事情が好転するだろう。」という原告ら医師の意見もあつたので、被告は、将来の経営収支の改善を期待して、第三期病棟建設計画を既定方針どおり進めることとし、そのための外科の充実をはかるべくさらに同年四月一日原告成瀬を、同年六月一日原告佐藤をそれぞれ採用した。

しかし、その後六ケ月を経過し、昭和四六年九月になつても病院の経営収支は一向に好転する気配はなく、同年四月から九月までの六ケ月間についてみれば入院患者延日数は、一七、二〇三で前年同期の一七、三四三より若干減少し、各月の月末在院数の合計は五三八で前年同期の五五八より若干減少し、外来患者延数は、二〇、六五〇で前年同期の二五、七三九より大巾に減少し、いずれも昭和四五年度上半期の水準を下まわつている。なおそのうち新患の件数については、一、六一九で、前年同期の一、一六五を上まわつているが、これは昭和四六年七月の医師会のいわゆる保険医総辞退のなかで、三萩野病院は保険診療を行なつたため、一時期患者が集中したことと同年四月からパート医による小児科の診療体制を作つたので、この小児科の患者数が含まれていることによるもので、これ以外の時期についてみれば前年同期とほぼ横ばいの状態になつている。また外科の手術例数(診料点数一〇〇点以上のもの)も三六で、前年同期の三五とほとんど変化はなかつた。

このような状態が昭和四六年度下半期においても続き、昭和四七年三月期(昭和四六年度)決算において、病院会計はかつてなかつた、七二一万二、七〇五円もの純損失を計上することとなり、これは前年度までの同会計の繰越利益剰余金四五〇万七、六二七円をすべて食いつぶし、逆に二七〇万五、〇七八円の繰越欠損金を残してしまつた。

このように、逐年実施される医療費の引上げや三萩野病院診療体制の充実等によつて診療収入の増加、引いては経営収支の向上が期待されたに拘らず、被告の予期に大いに反し、前記原告ら四名の内科医を採用した時点を境に経営収支が極端に悪化した原因は複雑多岐にわたるが、その直接且つ主要な原因の一つとして、外来患者の延件数が減少し、外来診療収入が激減したことと注射・薬の使用制限により診療収入が減少したことが挙げられる。以下少しくこれを敷衍すれば、先ず外来患者の延件数が、減少したことについて、従来三萩野病院では昭和四二年に再診料が設けられた際、それまで七日投薬であつたのを四日投薬に切り換え、爾来四日投薬の診療方式が慣行化していたものであるが、原告らは、従来の外来患者の治療が初診時のみ医師によつて行なわれ、その後は主として病院の経営的配慮から、多くの患者がひんぱんに薬を受取りに来るだけ、或は、あまり意味のない注射をうちに来るだけといつた治療上好ましくない診療方式が採られていたとの反省に立ち、患者を無用に来院させることをなるべく避ける趣旨から治療上七日投薬でよい患者に対しては従来の四日投薬を七日投薬の方式に改めたのであるが、同原告らのこの措置は必然的に外来延患者数(通院日数)の著減をもたらし、その結果、再診料、処方料、注射料が減少し、新患に比べて再来患者の割合が他の病院と比較して非常に大きいという三萩野病院の特殊性もあつて、三萩野病院の外来診療収入は原告らの診療方式のため相当額の減少をみた。外来患者延件数が減少したもう一つの原因は、北九州市が生活保護人員の縮少政策をとつたことにある。すなわち、前述のように三萩野病院では生活保護の患者が非常に多く六割以上を占めているのであるが、右縮少政策によつて三萩野病院の外来患者数は相当減少し、それに伴つて診療収入も減少した。

次に、原告らの投薬・注射の制限について、原告らは、現在の日本における薬効検定の実態が非科学的且つ不充分であるにもかかわらず、各医療機関は手軽に収益をあげる手段として、科学的根拠を無視して薬・注射を安易に濫用し、そのため患者は、高額の薬・注射料を負担させられるだけでなく、薬漬けにされていわゆる薬公害にさらされているとの反省に立ち、薬物は本質的には毒物であるから患者の容態と薬の効果・副作用を按配して薬物の使用は必要最少限に押えることを基本理念とし、そのために薬品の規制の厳しいアメリカ等の文献を求めて研究し、薬を、<1>効果がはつきりしているが、しかし必ずといつていい程副作用を伴うもの、<2>効果もはつきりしないが、副作用もはつきりしないもの、<3>効果が疑わしく、副作用が強いもの、の三種類に大別し、<1>の薬は患者に適応があれば副作用に注意し乍ら使用する、<3>の薬は直ちに使用をやめることゝしたが、最も数も多く、一般に濫用されがちの<2>の薬については、原告らは職業倫理からも、医師の良心からも、なるべく控え目に使用することが望ましいと考えて、診療上之を実践した。このように原告らは科学的根拠に乏しい薬についてはできるだけ使用を中止する医療態度を堅持したため、投薬料、注射料は激減し、三萩野病院の収入減に相当大きな影響を与えた。また経営収支悪化の主要な一原因として注目すべきものに人件費増と設備投資による減価償却費の増加がある。前者は、人件費が昭和四四年度六、四六八万一、〇〇〇円、同四五年度七、八八八万七、〇〇〇円、同四六年度八、八七二万円と毎年度一、〇〇〇万円以上の増加をみせ、給与総額に対する収入合計比が昭和四四年度二・六〇倍、四五年度二・三三倍、四六年度二・一一倍と大巾に減少しており、後者については、昭和四四年九月頃購入設置したレントゲンテレビの減価償却として定率法により昭和四五年度には金一二九九万円余を、昭和四六年度には金一一一一万円余を計上し(右両年度共減価償却予算は各金八〇〇万円)ており、貸借対照表上収支悪化の大きな一因をなした。

以上のような経営収支悪化の傾向が続くなかで、被告は予て懸案の第三期(新)病棟建設計画が実現され、入院設備を拡充整備することにより、診療収入が飛躍的に増大し、その結果病院経営の収支が改善されるべきことに僅かな期待をつないだのであるが、原告らは昭和四六年九月頃に至り、右病棟建設計画は、一つには之が生活保護者を患者層から締め出し、より裕福な都市勤労市民を対象患者として志向する差別思想に根ざしていること、今一つには該計画実施に必要な診療収入獲得のため投薬等の診療行為を強制することにつながることを理由として、被告理事会に対し被告がそれまで進めてきた第三期病棟建設計画それ自体に対し、明確に絶対反対非協力の態度を表明してきた。もともと医師は病院の管理運営の中心であり、新病棟建設計画を実施し、その趣旨、目的を達成できるかどうかは、専ら医師の協力態度にかかつていることはいうまでもなく、原告らが計画自体に協力しないという態度をとるかぎり被告としては、いかんともしがたく、同計画は断念せざるをえなくなり、昭和四六年一〇月一三日開催の評議員会において、理事会から「病院の現状収支では、病院の存続の条件を整備することが急務であり、新病棟建設計画はいつたん断念せざるをえない。病棟建設計画の一環として行つてきた、先行投資についてはこれを整理することとし、定員については同計画に従い増員する以前の状態にもどし、先行投資として取得した土地については売却する。安全センターについては当面常任者をおいて取り組むことはできない」との内容の運営方針が提案され、「医師については四五年度上期の状況(内科四、外科一)の人員に減員する」との内容を含んでいる旨の説明がなされ、右理事会の提案は、医師代表の評議員として出席していた原告をも含めて全員異議なく可決された。

被告は右評議員会の決議した方針にもとづき、医師三名(内科一、外科二)を減員することとしたが、まずその方法として、希望退職を募つた。しかし、これに応ずる医師は全くいなかつた。そこで、やむなく各医師について、一般職員との協調性、患者からの信頼度、等を総合判断し、内科一名の減員として原告秋根を、外科二名の減員として原告成瀬、同佐藤を、昭和四七年二月二六日、同日限りで、三萩野病院の医師として診療業務を行う旨の契約を解除するとの通告をした。

二  叙上認定の事実に基き、以下解雇の効力について逐一検討する。

本件第一次解雇は、三萩野病院の就業規則(それが医師にも適用あることはその規定上明らかである)一五条二項にいう「病院の経営上やむを得ない事由」に基くものであるが、被告は同条項の「やむを得ない事由」として、いわゆる整理解雇の場合に該る旨主張するので、先ずこの点について判断する。

一般に解雇は労働者に重大な脅威を与えるものであるから、軽々に行われるべきでないことはもちろんであるが、労働者に特段の「責に帰すべき事由」がないいわゆる整理解雇の場合にあつては、極めて厳格な要件が必要とされるものというべく、その要件としては、(一)人員整理を行なわなければ倒産必至という客観的事実があつて、その人員整理が合理化の最も有効な方法であること、(二)人員整理に至る過程においてこれを回避し得る相当の手段を講じたこと、(三)被解雇者の選定が客観的且つ合理的な整理基準の適用に基いたものであることが必要であり、右(一)ないし(三)の要件を備えて始めて企業経営上やむを得ない場合として整理解雇が許されると解すべきであつて、これらの要件を具備しない整理解雇は解雇権の濫用であり無効であるというべきである。

1  そこで右要件(一)の倒産必至の事実の存否を本件についてみるに、原告秋根、同坪井、同河野、同清水の四名が三萩野病院に常勤医師として勤務するようになつた昭和四五年下半期以降同病院の経営収支は急速に悪化し、昭和四七年三月期決算において二七〇万五〇七八円の繰越欠損金を残すまでに収支が悪化したこと、しかしてその主要な原因の一つが同原告らの診療方法の改革、即ち外来患者の通院間隔を従前より拡大し、そのため外来延患者数が減少したことによる再診料、処方料の減少、薬・注射の使用を従前と異り極力制限したことによる診療収入の減少にあり、更には医師の増員とそれに伴う従業員の人件費の増大等にあることは先に認定したとおりである。

ところで経営収支の悪化に対する改善策の一つとして、被告は、昭和四六年二月に人員増を伴わない病床増を一〇床行なつて、病院職員の労働を強化するという方法で当面の収支の改善を図るとともに、同年四月に原告成瀬を、同年六月に同佐藤をそれぞれ採用して外科の充実を図つたけれども、その後も経営収支は一向に好転する気配はなく、依然として外来延患者数は減少し、外科の手術例数もほとんど増加せず、診療収入も伸びず、逆に人件費が毎年一、〇〇〇万円以上も増加し、給与総額に対する収入合計比が毎年大巾に減少したために、経営収支の悪化は更に進行する傾向を示し、それに加えて、原告らは同年九月頃から被告の第三期病棟建設計画に明確に反対する態度を示すようになつたために被告は同計画をいつたん断念せざるを得なくなり、その結果、新病棟建設により病院規模を拡大し医療内容を充実強化することによつて経営収支の好転を期待するという唯一の方策も断念を余儀なくされたのであるから、昭和四七年二月当時における同病院の経営的収支の将来的展望は相当深刻な状態にあつたというべく、この際合理化の最も有効な手段として、人件費削減のための人員整理を行なうことなく、その儘推移すれば、近い将来において必ずや病院経営は破綻するに立ち至るであろうことは容易に予測できたところである。確かに昭和四七年三月期決算における金二七〇万五〇七八円程度の赤字は未だ倒産必至とするに足らない数字である、とする考え方もないではないけれども、本件の場合、診療収入以外に恒常的な収益を期待できない病院企業の特殊な性質上、勤務医師の医学的な信念と医師としての良心に基く診療方法が赤字の主要な一因をなしている場合において、当該診療方法が病院経営者の期待どおり改められることは殆ど不可能に近いといえるのであるから、両者の医療に対する考え方の当否の問題と関りなく、勤務医の診療行為に基く病院収益が将来顕著に上向く見込みはないと考えられることに加えて前示諸般の事情等に原告秋根ら四名が就職した昭和四五年九月から解雇のなされた昭和四七年二月に至る赤字累積の経緯を考え併せれば、昭和四七年三月期の正味財産が法人病院総合三七八〇万一〇〇〇円程度の小規模企業である三萩野病院にとつて、昭和四七年三月期決算における金二七〇万余の赤字がいずれ来るべき倒産を意味するものと認めるを妨げない、というべきである。

なお前認定のとおり、原告らは元々、主として、被告の第三期新病棟建設計画の実施に必要な医師の増員として先行投資的に雇傭されたものであるから、その計画が右のとおりいつたん断念を余儀なくされるに至つた以上医師の数を同計画前の状態に減員し、経営的収支を改善して病院の存続と経営的基盤の長期的安定を図ることは被告にとつてむしろ当然の措置ともいえるのである。

以上のとおり三萩野病院の収支は昭和四七年二月当時人員整理を必要とする程度に悪化しており、いわゆる整理解雇の前示要件(一)に欠けるところはなかつたことが認められ、右認定を覆して本件整理解雇が赤字もないのに解雇権を濫用して不必要になされた旨の原告の主張を認むべき証拠はない。

原告らは、仮定的に、病院収支の悪化の原因は専ら被告の経営方針の誤り、あるいは経営努力の欠如にあり、赤字収支の責任者である被告が責任のない原告らを整理解雇することは、自らの責任を他に転嫁するものであつて、信義則に違反し、解雇権の濫用として許されない旨主張する。

成程三萩野病院における赤字収支を招来した原因の一端が、外来患者の通院間隔を拡大したり、薬・注射の使用を制限したりした原告らの診療行為にあることは前認定のとおりであるが、右診療行為は、原告らの医師としての良心と信念に基くものであつて、それなりに正当な理由がある行為として評価されるべき性質のものであり、ましてやこれらの行為を捉えて原告らに対し赤字収支の責任を問うことが許されないのは原告ら主張のとおりである。

病院経営者は、整理計画を樹立実施するに当り、診療行為に基き病院収支の赤字原因を作出した医師従業員をその故をもつて整理の対象として選定することは、医療の性質上解雇権の濫用として許されないというべきであるが、企業経営上の見地から当該医師従業員を整理解雇の対象として選定することは、一見結果的には同一の如くであるが、自ら別個独立の問題に属するもので、許されない道理はない。換言すれば、勤務医ら被傭者の責に帰すべからざる事由によつて病院の経営収支が悪化し経営困難に陥つた場合において、病院経営者がその整備計画に基いて余剰の医師ら従業員を解雇することが許されないとする法律上の根拠はなく、仮令経営収支悪化の原因が経営者の責に帰すべき経営方針の誤りないし経営上の無能にあるとしても、それが労使の信義則上著しく非難されるべき性質程度のものでないかぎり、経営者が実施する整理解雇は解雇権の濫用に該らないものとして許されると解すべきである。蓋し、企業の整備計画は元来経営者の専行するところであつて、その計画樹立に至る動機原因の如何によつて左右されるものではなく、ただその動機原因が著しく信義に反する場合にのみ解雇権の濫用として無効となることがあるにすぎないのである。

これを本件についてみるに、被告側の赤字収支の原因として、まず人件費の増加があるが、これについては成立に争いのない乙第一一四号証によると、原告ら医師を含む従業員の給与額の増加によるものであつて、経営者の被告としてもまことにやむを得ない性質のものであることが認められ、右人件費増の事実を以つて原被労使の信義則上経営者である被告を著しく非難することは当らないというべきであり、次に設備投資による減価償却費の増加についても、成立に争いのない乙第一一四、第一一五号証、証人池永弘充の証言によつて真正に成立したと認める乙第一三八、第一五六、第一五七号証によると、これは主として昭和四五年度にレントゲンテレビを購入設置したことゝ償却初年度の昭和四五年度、同四六年度に定率法により償却額を算出したことによるものであるところ、前者はレントゲン技師等の被爆量を減少させる目的から健康上、人道上の要請に基くものであると同時に医療内容の充実という観点からも被告としては是非必要な措置であつたことが認められ、後者も税法、会計法上認められた償却方式であつて許されないものではないのであるから、償却費の増大を捉えて被告のした設備投資を経営上の無能な措置として問責非難することはできない。また赤字収支の一因と考えられる昭和四五、四六年度における土地購入の点も、証人池永弘充の証言によつて真正に成立したと認める乙第一三八号証、第一五九ないし第一六一号証によると、これは財団法人の財産の効率的な運用により、将来予想される病院の拡張のための資金負担の軽減をはかることを目的として借入金によつてなされ、その後具体的には第三期病棟建設計画のための資金準備として位置づけられたものであり、病院会計と無関係な無謀な土地投機のためではないことが認められるのであつて、これを以つて特に非難すべき被告の経営方針の誤りということはできない。

その他、経営収支の悪化の原因について、被告に整理解雇を許さない程の問責事由を認むべき証拠はないから、その存在を前提として整理解雇を権利の濫用とする原告らの主張は採用できない。

2  次に整理解雇の要件(二)の整理回避の手段について考えるに、企業が整理解雇を実施するに当りそれ以前に之を回避しうるであろうあらゆる措置を講ずることは経営上望ましいことではあるが、形式的、画一的にあらゆる手段をすべて尽した上でなければ労働法上整理解雇は許されないと断ずるのは必ずしも相当でないのであつて、所詮は労使の信義則上相当と認められる範囲の回避手段を尽すことをもつて整理解雇のための必要にして充分な要件を備えたというべきであり、その範囲は当該労使の具体的関係に応じて決せられる外はないと解するが相当である。これを本件についてみるに、前認定のように、経営収支の悪化が次第に続くなかで、被告は昭和四六年二月に人員増を伴わない病床増を一〇床行なつて、当面の経営収支の改善を図り、同年四月にも経営収支の改善を期待して人的、物的に外科の充実を図つたけれども、経営収支は一向に好転せず、また医師三名の減員実施の方法として、まず希望退職を募つたけれどもこれに応ずる医師は一人もいなかつたのであつて、被告としても人員整理を回避しうる手段を相当程度講じたことが明らかである。そして病院経営の特殊性からして、医師でない病院経営者は医療行為自体について直接にはなんらの権原を有しないのであつて、経営収支の改善のために採りうる手段も自ら限られざるをえないのは誠に止むをえないところであることを考えれば、右回避手段をもつて相当の回避手段を尽したものということができるのであつて、これ以上に募金をするとか、土地を処分するとかの方策を講じなかつたとしても、それによつて本件整理解雇が解雇権の濫用となる筋合のものではない。

他に人員整理を回避すべき有効な手段の存在を認むべき証拠はないから、本件解雇においては整理解雇の前示(二)の要件も存在したことが明らかであり、本件整理解雇が回避手段を尽さないでした解雇権濫用の措置であることを認むべき証拠はない。

3  そこで進んで整理解雇の要件(三)の客観的で合理的な整理基準の設定と適用について更に審究するに、凡そ企業が実施すべき整理解雇のため設定すべき整理基準の合理性は当該企業の業種と規模、人員整理の必然性等を総合して具体的にその有無を決定する外ないのであるが、一般的にいえば、整理による倒産回避の趣旨を逸脱しない範囲において、従業員中再雇傭の蓋然性と人件費が高い地位、職種の労働者をより低い地位、職種の労働者に優先して整理の対象とすることが合理的であり、病院企業における勤務医師の場合にあつては、公知のとおり、現在の日本の医療制度下において医師一般が就職面、所得面について他の職種と比較してある種の特権的地位を保証されていることもあつて、特段の事由のない限り、他の病院従業員に対する場合以上に解雇自由の法原則の適用が巾広く認められて然るべきものと解する。

しかしてこれを本件についてみるに、被告が、前叙の経緯に基き、整理解雇の実施を具体化するに当り、当時の勤務医師八名につき、一般職員との協調性、患者からの信頼度、病院の業績向上への寄与度、勤務態度等に基き医師三名を対象者として選定すべき旨の整理基準の設定にはなんら不合理な点は存在しないのであつて、合理的な整理基準の設定という要件に欠けるところはない。

4  然しながら、右3の整理基準の具体的適用について、原告秋根、同成瀬、同佐藤はいずれも当該整理基準に該当しないにかかわらず、これに該当するものとしてなした本件解雇は解雇権の濫用であつて許されないと主張する。

整理解雇における整理基準そのものが合理的でなければならないことはもとよりであるが、これに該当するかどうかも客観的合理的に決定されなければならず、被告の恣意的主観的判断によるべきでないことは当然であるから、以下原告らのそれぞれについて、整理基準該当性の有無を検討する。

(1) 原告秋根について

<1> 成立に争いのない乙第一一八号証、甲第二一、三〇号証、証人池永弘充の証言によつて真正に成立したと認める乙第一六三号証、原告秋根本人尋問の結果(第二回)によると、昭和四五年一一月頃検査室の主任である池永道利が検査室において、同原告に「検査技師を外に出すときは、検査室の仕事の段取りもあるから一応主任である自分に言つてもらいたい」旨言つたところ「主任とは何か」「主任なんか関係ない」「お前に一つ一つなんで言わないかんか。」と大声で怒鳴りつけ、同主任と三〇分以上にわたり口論を続け、その間検査室の業務を中断させたことが認められる。

なお、原告秋根は、この件につき室園検査技師が同原告の指示で腸チフスの確定診断に必要な血清を朝日ケ丘病院に取りに行くため病院の自動車を出してくれるよう池永主任に要請したところ、同主任が「腸チフスなど出る訳がない」「普段の仕事を全部済ませてから、朝日ケ丘病院に行け」と言つたことに対し、原告秋根が抗議したものである旨主張するが右証拠によると、池永主任はもともと室園技師が朝日ケ丘病院に行く用件が腸チフスの検査のためであることは、同技師からはもちろん、原告秋根からも聞いていなかつた(右甲第三〇号証および原告本人尋問(第二回)の結果中、右認定に反する部分は採用できず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない)ので、同原告に、前記のとおり言つたことが明らかであるが、朝日ケ丘病院へ行くのが腸チフスに関する急ぎの要件であつたことからして、仮に池永主任に非があつたとしても原告秋根としては穏やかな態度で話し合えばすむ問題であつて、検査室で大声で怒鳴つて三〇分以上も口論を続け業務を妨害する必要はなかつたというべきであろう。

<2> 成立に争いのない乙第一二一号証、甲第二四号証、証人池永弘充の証言によつて真正に成立したと認める乙第一六四号証によると昭和四六年一一月頃、逆行性腸透視の際、後藤X線技師が患者の体の下に汚物が出たときの掃除の都合のため、新聞紙を敷いていたところ、原告秋根はその新聞紙をとつて精神病者のようにあたりに、ちぎつては投げ、ちぎつては投げして同技師に対しあてつけがましい態度をとつたことが認められ、患者の体の下に新聞紙を敷くかどうかは、医師にとつては、何ら医療上の意味をもつものではなく、単なる好みの問題にすぎないが、後で汚物の掃除とりをするのは、X線技師や看護婦であるから、その立場からすれば新聞紙を敷くのは当然であり、患者の体を現実に動かし、こぼれた造影剤を拭き取るのも、X線技師や看護婦であり医師として検査がやり難いということはありえないことが明らかであり、原告秋根本人尋問の結果(第二回)中、右認定に反する部分は採用できず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。そうすると、原告秋根の右の態度は、職員の立場を全く無視した身勝手なものであるといわれても仕方のないものであるし、しかも原告秋根は単に新聞紙を取り除いただけではなく、これを何度もちぎつてあたりに投げたのであるから、これはいかにも人を馬鹿にした陰湿なあてつけであるということができる。

そして右証拠によると同X線技師は原告秋根のような医師の下では働く気がしないと思つていることが明らかである。

<3> 成立に争いのない乙第一一九号証、甲第二二号証によると、昭和四六年一一月二七日頃、糖尿病患者に対するインシユリン注射を、あらかじめ原告秋根から指示されていた夜勤看護婦が、たまたま同患者が食欲不振を訴え、朝食をとらなかつたので、看護婦らのそれまでの経験の範囲では、糖尿病患者に対するインシユリン注射の指示は患者が朝食をとることが前提であると認識しており朝食をとらないときは、インシユリン注射はしないのが同看護婦らの常識であつたので、同看護婦の判断で同患者に対するインシユリン注射をせず、その朝、同看護婦がその旨、原告秋根に言つたところ、同原告は「医者の指示している注射をしない」「どうしてそういうことを看護婦に言う権利があるか」などと大声で怒鳴りつけ、これが看護婦の間で問題となつたことが認められる。

なお同原告は、レンテインシユリンと食事との関係について医学上の主張をしているが、その真否はともかく、右証拠によると、同原告はその日、看護婦に「今朝のことは僕の間違いでした」旨言つて自己の誤りを認めていることからして同原告が、当時そのような認識をもつていなかつたことは明らかであり、看護婦を頭から大声で怒鳴りつける必要はなにもなかつたはずである。

<4> 成立に争いのない乙第六四、一一六、一一七号証、甲第一九、二〇、八八号証によると、同原告は昭和四六年一〇月二一日、被告評議員会の書記を勤めた庶務課職員伊藤哲を医局に連れ込み同人が「はつきり、覚えておらず自分のメモには記載がない」旨主張するにもかかわらず、評議員会議事録中に重要な記載もれの発言があるといい、これを認める文書に署名することを、顔色を変えて、すごみを効かせた声で執拗に迫り、さらにその間、同職員が医局に連れ込まれたと聞き心配してその場にかけつけた平井医事課長を血相を変えて原告成瀬と二人で大声をあげて荒々しい態度で部屋の外に押し出し、結局右伊藤を医局に軟禁状態にしたまま、その真意に反する文書に署名させたことが認められ、原告成瀬、同秋根(第二回)各本人尋問の結果中、右認定に反する部分は採用できず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。また同証拠によると、右伊藤は事務職員であり、原告秋根とは、それまでこれといつて話をする間柄でもないし評議会においては、議事録作成については何の権限もない単なる書記にすぎないことが明らかであり、原告秋根、同成瀬の行為は、職員に対する全く理不尽な威迫であると評価されても仕方のないものである。

<5> 成立に争いのない乙第一二五号証、甲第二八号証によると、原告秋根は、昭和四五年九月頃、急性肝炎による入院患者に対し「安静と栄養が治療である」と称して全く治療せず、そのため同患者は「こんな医者にはみせたくない」と立腹して二日後に退院したことが認められる。

仮に右患者の場合、安静と栄養以外に有効な治療法がないというのが医学上の真理であるとしても、それを患者に誠意をもつて説明し、治療方針について患者を納得させるのが医師としての務めであるというべきであるのに、右証拠によれば、同原告はこれを怠り、患者を立腹させ、その信頼を失つたことが明らかである。

<6> 成立に争いのない乙第一二二号証、甲第二五号証によると、同原告は、急患の多い小児科の外来患者に対して、小児科と聞いただけで全く診察もせず、他の病院に行くよう指示したり、夜間当直の際看護婦が急患が来た旨の電話連絡をすると、ため息をついたり、返事もせずに受話器を置いたりして、なかなか出て来なかつたことが、何回かあり、こうした態度は、他の医師にはみられない特徴として看護婦らからも、問題視されていたことが認められ、原告秋根本人尋問の結果(第二回)中、右認定に反する部分は採用できず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

<7> 成立に争いのない乙第一一五号証、甲第一八号証によると、昭和四六年一一月一九日、三萩野病院の患者組織である患者自治会の代表者から三萩野病院に対し原告秋根について「患者に非常に感情的である。患者の納得をぬきにした治療を行う。夜の静かなときに病室を口笛を吹いてまわるので困る。往診に快く応じない。」との苦情が正式に申し出られたことが明らかである。

(2) 原告成瀬について

<1> 成立に争いのない乙第一二三号証、甲第二六号証、原告成瀬本人尋問の結果によると、同原告は、昭和四七年二月五日午前一〇時三〇分頃、第一病棟看護婦詰所にやつてきて黒水看護婦に「外科の急患のために必らず一病室を空けておいてほしい」との相談をもちかけ、これに対し同看護婦が、病室の確保の問題は婦長のする仕事であり、一看護婦としてはどうにも出来ることではなかつたので「自分で勝手にそういうことは出来ない」と言つて断つたところ、同原告は、それから一時間にわたつて、同看護婦に対し執拗に自己の意見を繰り返して述べ続け、その間同看護婦の業務を中断させ、さらに、午後二時頃、再び同詰所にあらわれ、一時間ばかり同看護婦に対し午前中と同様のことを繰り返して述べて業務を中断させ、同看護婦がかかつてきた電話をとつた際仕事の話だつたので、それまで仕事がたまつていていらいらしていたこともあつて思わず「先生方は余程お暇なんですね」と言つたところ、同原告は、突然立ち上り、同詰所で仕事をしていた他の二人の看護婦に向つて「今の黒水の態度はどういうことだ。どう考えるか」と興奮して怒鳴り、右看護婦らは、おそれをなしてしばらく席をはずした程で、黒水看護婦が同原告に「私の言い方が悪かつたんだつたら謝ります。」と言つたのに対し、同原告は「謝まることはいらん。もう勝手にしなさい。馬鹿が」と言い乍らドアが破れんばかりの激しい勢いで外に出て行つたことが認められ、原告成瀬本人尋問の結果中、右認定に反する部分は採用できず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

<2> 成立に争いのない乙第一二四号証、甲第二七号証によると、同原告は、昭和四六年一二月七日山本節子婦長に対し既に退職していた田口看護婦の退職理由とか外科主任の任命方法等を詰問口調で問いただしたうえ、当時空席になつていた第一病棟主任看護婦の後任の件について「自分は帆足看護婦を推薦する」と述べ、これに対し同婦長が「先生が推薦するからといつて必らずしもなるとは決つておりません」と答えたところ、同原告は「反対する奴が居つたら俺はいつでも反論してやる。」と強い口調で述べて部屋から出て行つたことが認められ、原告成瀬本人尋問の結果中右認定に反する部分は採用できず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

そもそも看護婦の人事に関し婦長をつかまえて自分の意見に「反対する奴が居つたら俺はいつでも反論してやる」などということ自体医師としての地位をかさに看護婦らに対しことさらことを構えた姿勢であり職員との協調性を欠く態度であると評価されても仕方ないというべきである。

<3> 成立に争いのない乙第一二〇、一二四号証、甲第二三、二七号証によると、昭和四六年六月中旬頃、入院患者の手術の際、主治医と執刀医との間の連絡の不手際から、同一の患者に同一の投薬をする処方箋が薬局にまわつて来たので、薬剤師が病棟にその旨伝えたところ、翌朝、同原告は薬局に入つて来るなり加来薬剤師に向つていきなり頭から「加来さん、あんたは……」と興奮した口調で怒鳴りつけ、投薬袋が悪いから右のようなミスが起きたかのようなことを、大声でまくしたてたうえ、その後「薬局に文句を言つてきた」と病棟詰所で看護婦に話していたことが認められ、原告成瀬本人尋問の結果中、右認定に反する部分は採用できないし、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

もともと右重複投薬は、もつぱら医師の側のミスであつて薬剤師には何の責任もないことであるのに、それをいきなり薬局に大声で怒鳴り込んで行くなどということは、職員との協調性を云々する以前にその人格が疑われても止むを得ないというべきである。

<4> 成立に争いのない乙第一一五号証、甲第一八号証によると、昭和四六年六月頃庶務課が職員の定期健康診断についての「通達」を出したところ、同原告は庶務課にあらわれ、女子事務員に向つて「通達という言葉は官僚的でけしからん」と大声で恫喝し、同女子事務員を威怖させたことが認められ、原告成瀬本人尋問の結果中、右認定に反する部分は採用できず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。このようなささいな言葉の問題で、わざわざ庶務課に怒鳴り込み、女子事務員をつかまえて恫喝する必要がどこにあるのか、不可解であるといわざるを得ない。

<5> 成立に争いのない乙第一二七号証によると、同原告の執刀した手術がいつもより長時間であつたので、管理当直の山上繁喜が手術終了後に看護婦に対し「今日は長くて御苦労さんでした」と言つてその労をねぎらつたところ、同原告は何を考えたのか「手術が下手だと言つた」といつて顔面蒼白となつて当直室に怒鳴りこんでいつたことが認められる。

<6> 成立に争いのない乙第一一六、一一七号証、甲第一九、二〇号証によると、同原告は、昭和四六年一〇月二一日、前記原告秋根の項で述べたとおり、同原告と共謀のうえ庶務課職員伊藤哲を医局に軟禁し、文書に署名を強要したことが認められ、原告秋根(第二回)、同成瀬各本人尋問の結果中、右認定に反する部分は採用できず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。原告成瀬は「秋根の言つていることは筋が通つていると思う」と言葉をはさんだにすぎないと弁解するが、右証拠によると同原告は医局にかけつけた平井課長を血相を変えて原告秋根と一緒になつて外に押し出したことが明らかであり、右軟禁、署名の強要に加担していたといわざるを得ない。

<7> 成立に争いのない乙第一二二号証、甲第二五号証によると、同原告は、夜間当直の際、心臓が悪いうえ子供が死亡したために倒れた患者を診察し、血圧測定をしたが、症状について全く説明もしなかつたため患者が納得せず、翌朝説明を求めに来たことがあつたことが認められる。

<8> 成立に争いのない乙第六三号証、証人池永弘充の証言によつて真正に成立したと認める乙第一三二ないし第一三七号証によると同原告が常勤の外科医として勤務するようになつた昭和四六年四月以降、本件解雇に至る昭和四七年二月までの期間をとつて、前年の同期間と比較すると、外科の患者数は概して増加するどころか減少に転じていること、すなわち入院実件数はわずかに増加しているが、外来実件数、再来延件数、入院延件数、ともに減少し、新患実件数は昭和四六年七月の医師会保険医総辞退の際、三萩野病院は保険診療を行なつたため同月に一〇一件と他の月の約三倍もの患者が三萩野病院に集中したため増加したがこの特殊な要因を除けば、新患実件数も減少していることが明白であり、しかも昭和四六年四月以降右各項目について月別の件数の推移をみても昭和四七年二月に至るまでほとんど横ばいないし減少の傾向がみられ、また手術例数も昭和四六年四月から四七年一月までの間の合計では前年同期間のそれより若干増加はしているものの(しかしこれも月平均二件足らずの増加にすぎない)、月別の件数推移は増勢の傾向はみせておらず、ほとんど横ばい状態であることが認められる。

従つて、同原告は、外科の業績向上のために採用されたにもかかわらずこれにはほとんど寄与していないといわざるをえない。原告成瀬本人尋問の結果中、右認定に反する部分は採用できず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

(3) 原告佐藤について

<1> 成立に争いのない乙第一一五、第一六六号証、甲第一八号証、証人池永弘充の証言によつて真正に成立したと認める乙第一六八号証、証人浜田勝憲の証言、原告佐藤本人尋問の結果によると、同原告は、昭和四六年九月頃、被告理事会に対し、いわゆる「第二松寿園闘争に参加する」との理由で一ケ月間休ませてもらいたい旨申し出、これに対し同理事会が有給休暇(同原告は採用初年度で年間六日間の有給休暇をとれることになつていた)をとることについては、とやかく言わないがそれ以上休むことは認められず、病院で勤務すべき旨、同原告に通告したにも拘らず、同原告は同月一四日から二一日まで六日間(一五日は祭日で一九日は日曜日)の有給休暇をとつただけでなく、同月二二日から二九日までの間に連続して六日間(二四日は祭日で二六日は日曜日)欠勤し右闘争に参加したことが認められ、原告佐藤本人尋問の結果中、右認定に反する部分は採用できず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。このような無断欠勤、診療業務の放棄は勤務医師として常軌を逸したものであると評価されても仕方がないというべきである。

<2> 成立に争いのない乙第一二四号証、甲第二七号証によると、同原告は、昭和四六年一〇月頃、手術後麻酔から完全に覚醒せず高血圧状態が続いている患者に対して血圧下降剤アポプロンの静脈注射をするよう山本看護婦長に指示したが、同婦長は右薬液の皮下注射はともかく静脈注射は全く経験したことがなく、文献を調べても静脈注射をしてよいとは書かれていなかつたので、同原告に対しその旨説明し、「されるのだつたら先生がなさつて下さい」と言つたところ、同原告はにやにや笑つて同薬液の注射をしなかつたことが認められるが、右事実からすればアポプロンの静脈注射の可否に関する医学上の問題とは別に同原告の診療態度が実にいいかげんなものであつたことが窺える。

<3> 成立に争いのない乙第一二二号証、甲第二五号証によると、同原告は、足の痛みを訴えて通院している患者に対し「痛いのは働きが足りないからだ」と言つたり、また別の患者に対しては「もう年だから死ななきやなおらない」との暴言をはき、言われた患者は一時通院を中断したことが認められ、原告佐藤本人尋問の結果中、右認定に反する部分は採用できず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

<4> 同人が外科医として勤務するようになつて以降外科の業績向上にほとんど寄与していないことは、原告成瀬と同様に(2)の<8>掲記の証拠上明らかである。

(4) 以上の事実を総合すると、原告秋根、同成瀬、同佐藤らは、概して、医師の特権的地位に慢心して、ともすれば職場秩序を乱す言動に走りがちであつたが、

<1> 原告秋根は、感情的で激昂しやすく、医師としての地位をかさに一般職員を見下して威圧し、怒鳴りつけるような言動が多く、職員との協調性を相当程度欠いていたうえ、患者に接する態度が時として非常に悪いために、患者から信頼されないことも間々あり、患者からしばしば苦情が出ていたことが明らかであり、同原告は本件証拠上明らかな他の内科医と比較して最も強く本件整理基準に該当するというべきであるから、被告が内科医一名の整理解雇の対象者として同原告を選んだことは客観的にみて合理的であつて、何ら解雇権の濫用に該るものではない。

<2> 原告成瀬は、一般職員と好んでことを構え、そのために職員とのトラブルが絶えず、医師としての地位をかさにこれらの者を威圧し、侮辱するような言動が多くて、職員との協調性を相当程度欠いていたうえ、患者に接する態度が時として悪く、また同原告は外科の充実強化のために採用されたのに、その業績向上にはあまり寄与していないこと等が明らかであるし、原告佐藤は医師として未熟である一方、勤務態度は非常に悪く、患者に対しては暴言をはいたりして、その信頼もなく、また外科医として勤務するようになつて以降、外科の業績向上にはほとんど寄与していないことが明らかであるし、本件証拠上明らかな他の外科医と比較すると、その者より一層強く本件整理基準に該当するというべきであるから、外科医二名の整理解雇の対象者として原告成瀬、同佐藤を選んだことは客観的にみて合理的であるといわざるを得ない。

(5) 以上説示のとおり原告秋根、同成瀬、同佐藤に対する本件第一次解雇は整理解雇の前記(一)ないし(三)の各要件を全て満したものであるから、その意味において、三萩野病院就業規則一五条二項所定の「病院の経営上やむを得ない事由」を原因とする有効な解雇と断ずることを妨げないのであるが、右整理解雇の事由の外にも前示認定の諸般の事情特に同原告ら就職の経緯と原告らの反対により新病棟建設計画が中止された経過を考え併せれば、右諸般の事情は、同原告らを解雇するにつき同条項の「病院経営上やむを得ない事由」に該当することは優に之を肯認できるところであるから、所詮その有効性に疑問を挿む余地はないのであつて、解雇権の濫用を縷々強調する原告らの主張は之を認むべき証拠がなく失当である。

三  原告らは、本件第一次解雇は、一旦確保された医師の員数を医療法および同施行規則の要求する基準員数より下回る員数とする違法行為であり、民法九〇条により無効であると、主張するので考えるに、当裁判所の見解は左のとおりである。すなわち、医療法二一条一項は「病院は省令の定めるところにより左の各号に掲げる人員及び施設を有し且つ記録を備えて置かなければならない……………」と規定し、その一号としてさらに「省令を以つて定める員数の医師、歯科医師、看護婦その他の従業者」を掲げており、同条二項においては同条一項各一号の違反に対して自ら罰則を設けることをせず罰則を設けるか、どうかを政令に委任している。この趣旨は要するに医療法は、病院については相応の医師その他の人員施設を必要とするとしながらも、医師その他の人員については、いかなる態様で、いかなる内容の規制をするかを省令に委任し、罰則によるその強制の当否を政令に委任していることにほかならない。

そしてこの規定を受けて、医療法施行規則一九条一項は「法二一条第一項第一号の規定による病院に置くべき医師、歯科医師その他の従業者の員数の標準は、次の通りとする」と規定し、各号において、患者数その他を基準にした医師その他の病院従事者の数の算出方法を定めており、医師等の定数を絶対的に守らなければならない基準として設定せず、あくまで標準としているのであり、これは同規則二〇条の物的施設についての規制の仕方と根本的に異つている。そして医療法施行令も右施行規則一九条に関する罰則は定めていない。

右規則が、このような規定の仕方をしているのは、病院における医師その他の職員の定数につき絶対的基準を設定してその確保を強制することは医療の需要に対する医師等の絶対数の不足、経営実体の経済的基盤の多様性等の社会的現実からして適当ではないとの判断の下に一応の標準を設定して弾力的運用の余地を認めたうえ、行政上の指導監督を通じて規制していこうというものである。すなわち医療法施行規則の医師定数は単なる病院に対する行政庁の監督指導の標準であつて、その責任と判断において弾力的運用を容認しているものと解すべきであり、従つて、医師の減員により同規則の標準を下まわる結果となつたとしてもそれは行政庁の病院に対する指導監督上の問題であつて、これによつて勤務医師の減員のための雇傭契約解除の効力まで左右されるものではないというべきである。

よつて被告の解雇に医療法等に違反する違法不当な廉はなく、この点の原告らの主張は理由がない。

四  原告らは、第一次解雇は、反対の予想される原功、上野博郷両理事にその通知をせずして開催された寄付行為違反の理事会により決議されたものであるから、違法無効であると主張する。

成立に争いのない甲第五九号証、第九二号証によると、被告理事会の招集は理事長が日時、場所および議題を各理事に通知してこれをしなければならないと規定されていることが明らかであるから、理事会の開催にあたり、理事の一部の者に対する招集通知を欠くことにより、その招集手続に瑕疵があるときは、特段の事情のないかぎり、右瑕疵のある招集手続に基づいて開かれた理事会の決議は無効になると解すべきであるが、通知を欠いた当該理事が出席してもなお決議の結果に影響がないと認めるべき特段の事情があるときは、右の瑕疵は決議の効力に影響がないものとして、決議は有効になると解するのが相当である(最高裁判所昭和四三年(オ)第一一四四号同四四年一二月二日第三小法廷判決、民集二三巻一二号二三九六頁参照)。

しかるところ、本件第一次解雇を決議した昭和四七年二月二六日の理事会の開催にあたり、原功、上野博郷両理事に対する招集通知を欠いたことは当事者間に争いがないが、前記証拠および成立に争いのない甲第二九号証、証人浜田勝憲の証言によると、被告理事会は一〇名の理事で構成され、本件第一次解雇を決議した右理事会には右二名の理事を除いた八名の理事が出席し、全員一致で第一次解雇を決定したこと、右二名の理事は昭和四六年一〇月の評議員会で新病棟建設計画の断念と医師三名の減員を決議した際、これに反対の意思を表明して退場し、その後の理事会には一度も出席していないこと、本件第一次解雇の理事会決議は右評議員会決議に基づくものであり、右二理事は理事会には欠席していたが、その意見は右評議員会決議の際から概ね推察しうるものであつたこと、等が明らかであるから、本件理事会に右二理事が出席していても、その決議の結果には影響がなかつたことは容易に推察できるところであり、前記招集手続の瑕疵は決議の効力に影響を及ぼさず、本件理事会決議は有効であるといわなければならない。

五  使用者は、労働者を解雇しようとする場合には、少くとも三〇日前にその予告をするか、またはそれに代る予告手当の支払をしなければならないが、仮にこれをしなかつたとしても解雇の意思表示がなされてから右予告期間を経過するか、または予告手当の提供があるかすれば、その時から解雇の効力を生ずるものと解すべきところ、本件の場合、解雇の意思表示がなされてから、右予告期間を経過したことは記録上明らかであるから、本件第一次解雇は有効であることに変りはない。

第三  次に、原告坪井、同清水、同河野に対する解雇(第二次解雇)の効力について判断する。

一  解雇事由の有無

本件第二次解雇は、三萩野病院の就業規則にいう「従業員を解職するに足る重大な事由」があることを理由とするものであるから、まず右解雇事由に該当する事実の有無について検討する。

1、原告秋根らの「就労闘争」(病院内乱入等)への加担

成立に争いのない乙第八四号証の一、第一二六ないし第一三〇号証、甲第三二、三四号証、右乙第一二九号証によつて真正に成立したと認める乙第八六号証、証人池永弘充の証言によつて真正に成立したと認める乙第八五、八七、一六五号証を総合すると次の事実が認められ、原告坪井本人尋問の結果のうちこれに反する部分は採用できず、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

第一次解雇の通告の翌日である昭和四七年二月二七日午後二時頃、日曜日であるのに原告坪井、同清水、同河野を先頭にして、そのうしろに原告秋根、同佐藤及びその支援グループ数名が続き一団となつて病院の建物出入口(職員通用門)におしかけた。そして右集団は被告理事らおよび病院職員らに向つて口々に原告らを病院内に入れろと要求し「首切りを撤回せよ」などと大声で口ぎたなく罵声をとばし、理事、職員らと押し問答を始めた。そのうち先頭部分にいた原告河野がそれまで片方だけ開いていた右出入口の両開きドアの閉じてあつた側のドアの留金をはずして出入口を広げると同時に、右集団はいつせいにどつと同出入口から病院内の廊下に土足のままなだれ込み、これを制止しようとする理事、病院職員らを押しまくり管理当直室(急患の受付、電話交換、その他病院の警備保安業務を行なう部屋)の電話交換台の前まで押し込んだ。そして押し込みながら原告秋根、同佐藤およびその支援グループは病院内乱入の制止にあたつていた被告理事らに対し罵言雑言をあびせて激しい暴力を揮つた。たとえば原告秋根とその支援グループ中の二、三名が前の方で制止にあたつていた病院職員三宅を出入口の外に引きづり出し、乱入集団の先頭付近にいた者が、病院職員らに対し横腹を小突く、向う脛を足で蹴り上げる、胸倉をつかんで引つ張る、頭髪をつかんで引つ張ろうとする等の暴行を加えた。さらにその混乱の中で転倒させられ、廊下の床にうづくまつている被告理事長中西に対し、その腰付近を数回にわたり踏みつけたり、蹴りつけるという破廉恥で悪質な暴行を加えた。とくに原告佐藤はその際三回にわたつて膝を腰付近の高さまで上げ床に倒れている右中西理事長の腰部を力いつぱい踏みつけた。この暴行により同理事長は加療一〇日間を要する腰部挫傷の傷害を負つた。また右乱入集団の一員である古川は、病院職員三鼓秀雄に対し左手をつかんでねじあげる暴行を加えこれにより同人に対し加療五日間を要する左手関節捻挫の傷害を負わせた。

その後、病院側からの連絡により警察官がかけつけてからは、激しい暴力はおさまつたが乱入グループはなおも理事らの退去要求を無視して、院内から退去せず、口々に大声を張り上げて、理事らの悪口雑言をとばし続けた。そして乱入グループの一員である伊藤は医事課前の廊下の長椅子の上にあがつて「浅間山荘の国民的英雄に続け」(いわゆる「連合赤軍」の浅間山荘事件のこと)とか「三萩野病院を革命の拠点にする」などという演説を長々と続け、手を振つて同課の窓ガラスを叩き破つた。またそのころも、原告佐藤は前記三鼓職員に対し、土足でその左大腿部に飛び蹴りを加えるという兇暴性を発揮した。

こうして、右乱入グループは午後三時四〇分頃ようやく引揚げて行つた。

翌二月二八日午前八時五〇分頃、原告坪井、同河野、同清水を先頭にして、そのうしろに原告秋根、同佐藤および前日と同様の支援グループが続き、一団となつて職員通用門の前におしかけた。その時病院側では前日と同様の乱入事件が発生することを予想して、同出入口のトアを内側から鍵をかけていたのであるが、病院の勤務医師である原告坪井、同河野、同清水の三名が先頭になつてドアを開けるよう求めたので同原告ら三名だけを病院内に入れるためやむなくドアを開いたところ、同原告ら三名を先頭に、原告秋根、同佐藤、および支援グループまで出入口から入り込み、しばらくの間一団となつて制止する職員らを押しまくり、午前九時一〇分頃、被告理事が原告坪井、同河野、同清水に対し、診療開始時刻が過ぎた旨告げると、同原告ら三名は、病院内に入ろうとしたが、支援グループらもこれに続いて中に入ろうとして押し込んでくる状態であつた。そして同原告ら三名が、その場から病院内へ立去つた後も、午前一〇時三〇分頃まで押し合いが続いた。そして、同日午後一時三〇分(午後の診療開始時刻)頃になると、再び原告坪井、同河野、同清水を先頭に午前中と同様のグループが一団となつて職員通用門におしかけ、同原告ら三名以外の集団の乱入を制止しようとする職員らを押しまくり、職員らは病院内の電話交換台の前付近まで押し込まれ、原告秋根は病院の二階の看護婦詰所内まで入り込み、また同成瀬、同佐藤は第一病棟詰所まで入り込み、支援グループの仰木、伊藤、古川らは外来患者待合室まで入り込み、ビラを配つたりした。そして原告秋根は職員通用門から乱入しようとして職員らに制止されている時、携帯マイクを持ち、スピーカーのボリユームを上げて二〇分間にわたりわめきたてた。

そして翌二月二九日以降は、三月七日福岡地方裁判所小倉支部の原告秋根、同佐藤、同成瀬に対する病院敷地内への立入禁止仮処分命令が発せられた後もなお、三月二〇日頃までの間、日曜日を除き連日午前と午後病院の診療開始時刻に合わせて原告秋根、同佐藤、同成瀬及び支援グループは病院に押しかけ職員通用門から病院内に乱入しようとし、これを制止する病院職員らともみ合い、被告理事、病院職員らに対し、罵言雑言をあびせるという混乱状態が続いたが、その際、原告坪井、同河野、同清水は、毎回必ずといつてよいほど三名そろつて病院内に乱入しようとするグループの先頭に立ち、これと一団となつて被告理事らが診療業務につくよう指示するまで同グループと行動を共にし、また右乱入グループに対する病院職員の制止を妨害した。そしてその間の二月二九日午前九時頃原告秋根と支援グループの伊藤は職員通用門から乱入しようとして職員らによつて制止されている集団から一時離れて病院正面玄関にまわり、「開けろ、開けろ」と大声で叫びながら、同玄関のガラス戸を強く叩き、右ガラスを破つてこれを開き、病院内に乱入したり、同日頃原告佐藤らが病院内の待合室に入り込み携帯マイクを用いて大声で演説したりした。

また、三月一三日原告佐藤が公務執行妨害罪の現行犯で警察官に逮捕されて連行される際、原告清水は病院内から白衣のまま飛び出し警察官に対して体当りをし、殴る蹴る等の暴行を加えた。

こうした一連の集団的な病院内乱入と暴力行為等(原告らはこれを「就労闘争」と称しているのであるが)は、二月二七日被告理事長名で出された立入禁止の告示はもちろん、三月七日に発せられた前記仮処分命令を無視した不法なものであることはもちろん、職員通用門から集団で乱入しようとしこれを制止する病院職員らともみ合い、大声をあげること一つをとつてみても本来診療の場として常に静穏を保つことが不可欠な病院の秩序を著しく侵害し、患者及びその診療業務に携わる病院職員に多大の不安動揺を与え病院の業務をはなはだしく阻害するものであることはいうまでもなく、こうした行動を連日にわたり間断なく続けること自体医療そのものに対する敵対破壊であるといつても過言ではない。

これは「良心的医療」を云々する以前の原告らの医師としての適格性が疑われる行為である。

これら一連の病院内への乱入は、連日午前、午後とも毎回にわたつて原告坪井、同河野、同清水の診療開始時刻に合わせ、同原告ら三名が先頭になり後方にその余の原告らと支援グループが続き、一団となつて職員通用門に押しかけるところから始まつており右原告坪井ら三名に対しては他の者達と一緒にくるのはやめるよう何度も注意したにもかかわらず、これをやめないのであるから同原告ら三名の右のような行動はそれ自体あらかじめ、相互に意を通じたうえでの組織的計画的行動であることは明らかであつて、しかも右原告坪井ら三名の原告は理事らが診療業務につくよう命令するまで、乱入集団の先頭に位置して、病院側職員らと対峙し、その職員らが後続部分の乱入を制止することを妨害しているのであるから、同原告ら三名は乱入グループと共謀のうえ、その病院内への侵入を先導し、援助し、病院側の自衛措置としての排除、制止を困難にするというきわめて悪質、陰険な役割を果したというべきである。ちなみに当時池永事務部長が原告坪井に対し「秋根、佐藤、成瀬については、仮処分の申請をしているのだからその解雇の当否については法廷で争い病院内では患者や看護婦をはじめ多くの婦女子もいることだし荒つぽいことはやめようじやあないか」と要請したところ、同原告は「裁判なんてまやかしであんなもので救われるとは思つていない。だからここの現地で実力闘争をやるんだ。」と答えて、右要請をはねつけた事実がある。

原告らは、「二月二七日原告坪井が主治医となつていた患者の柏木氏が大量に下血したとの連絡が病院からあり同原告が緊急外科手術の必要も考えられるため原告佐藤を同行して病院にかけつけたところ、ピケ要員に阻止され原告佐藤と一緒には入れないとの理由で阻止され、原告坪井のみしか院内立入りが認められなかつたので、この患者無視の行動にいきどおりを感じ抗議した原告河野、同清水、同秋根、同成瀬らと右ピケとの間でもみ合いがあつたまでである」と主張するが前記証拠によると、当日病院の方から原告坪井に柏木氏の容態急変の連絡をした事実はなく、連絡があつたとすればそれは同原告の方から病院内の誰かに症状を問い合わせたことしかありえない。そして、当日の柏木氏の症状がわざわざ同原告が病院にかけつけるほどのものであつたかどうか疑わしいが、その点はともかくとして、緊急外科手術の必要も考えられたから原告佐藤を同行したという言い分はそれ自体病院内乱入の口実にすぎないのではないかと疑われる。なぜなら同日(休日)は外科の小野医師が当直であり、同医師が病院内にいたのであるから、原告佐藤を連れてくる必要は全くなかつたといわざるをえないからである。休日に容態急変の知らせを受け、病院にかけつけたというのであるから、この日の当直医が誰であるかを医師たる同原告が知らなかつたはずはない。しかも、原告佐藤だけでなくその余の原告や外部支援グループまで引き連れ二〇数名と一団となつて職員通用門に殺到したのであるから、原告らの前記弁解は認め難い。

真に患者の容態急変を心配してかけつけるのなら一人で真先きに患者のところに飛んで行くべきであり、混乱が生ずることが当然予想される解雇医師らや支援グループと行動を共にし、原告佐藤を病院内に入れることにこだわることはないはずである。要するに原告らはあらかじめしめしあわせたうえ医師としての地位を悪用し、患者を利用し、病院内への集団的、暴力的乱入を組織したものにほかならず、医師として恥ずべき行為を敢てした責任は重大であるといわなければならない。

なお被告理事、病院職員らは原告らが支援グループと共に一団となつて職員通用門に押しかけてきたのでいつたんこれを阻止したうえ、原告坪井の言を聞き、同原告を病院内に入れその他の者の乱入を認めなかつたことが明らかであり、これはきわめて当然の措置である。

また原告らは被告側が原告秋根、同成瀬、同佐藤を解雇した際、患者引き継ぎをさせなかつたと主張するが、証人浜田勝憲の証言によると、二月二六日中西理事長が、他の理事同席のうえ原告秋根、同佐藤に対し、同日限りで解雇する旨を通告した際、外科の原告佐藤は小野医師に、内科の原告秋根は福山院長に、それぞれ引き継ぎをするよう指示し、同月二八日には原告成瀬に同様の指示をしており、これに対し、同原告らは引き継ぎを全くしないまま病院外に立ち去つたものであり、その後引き継ぎを申し出て病院内に立入を求めた原告は一人もいなかつたことが明らかである。

2、無届早退・欠勤

原告河野、同清水がいずれも昭和四七年五月一三日午後一時から無届で早退し、病院外の集会に参加したこと、原告清水が同月二二日、同河野が同月二三日、同坪井が同月二四日にそれぞれ無届欠勤をし、久留米市の三西化学工場による農薬公害の集団検診に参加したことはいずれも当事者間に争いがない。そして右五月二二日以降の同原告らの無届欠勤は、同月一三日の原告河野、同清水の無届早退についての理事長の同月一六日付の文書による警告の直後にこれを無視して院長に対する口頭による届出もなく、原告らの勝手な判断で行なわれたものであることは原告らにおいて明らかに争わないから、自白したものとみなす。そうすると右無届欠勤は理事会と病院の管理体制に対する重大な挑戦であつて情状は重いというべきである。

原告らは、当時医師については欠勤早退の届を出すことはなされていなかつたのであり、別に問題にもならなかつたのであるから原告らの右無届早退、欠勤だけをとらえて問題にするのは原告らに対する悪意に満ちた中傷である旨主張するが、仮にそのように勤務手続が医師についてはルーズであつたとしてもそれはもともと医師の勤務態度について高度の信頼がおかれていることからくるものであつて被告が右原告らの勤務態度に関し信頼をなくし警告まで発した直後に、あえて再び無届欠勤を行ない院長に対する口頭の連絡すらしないなどということは医師として重大な任務懈怠であり、問題視するのは当然であるというべきである。

また原告らは久留米市の農薬被害の集団検診に参加したことにつき、地区労病院のたてまえとして、この種の検診に出席することは当然と考えていたから残りの二医師(原告ら)に院内の診療は十分依頼して行つたと主張するが、仮にそうであつたとしても、前記のような事情からすれば、それをもつて右無届欠勤を正当化する理由にはならないというべきである。

3、診療拒否、当直拒否

原告坪井、同河野、同清水が、昭和四七年三月一四日以降六月一六日までの間、既に解雇されている原告秋根、同成瀬、同佐藤を含めた当直表を作成しこれに基いて当直勤務を行ない被告理事会と病院長が作成した当直表に基づく当直勤務を行なうことを拒否し、更に同月一七日以降同年七月一二日までの間業務命令によりあらかじめ命じられていた当直勤務を全面的に拒否し、原告清水が同年三月六日、同河野が同月二九日にも、それぞれ、あらかじめ命じられていた当直勤務を拒否し、原告坪井、同清水、同河野が同月二七日から同月二九日までの三日間いずれも外来診療を拒否し、もつてそれぞれ医師としての勤務を放棄したことは、当事者間に争いがなくあるいは原告らにおいて明らかに争わないから自白したものとみなす。

ところで原告らは、原告ら病院勤務医師には当然には当直勤務をすべき義務がない、また六月一七日以降の全面当直拒否は正当な争議行為であると主張するので検討する。

(1) 原告らの当直義務について

医療法一六条は病院管理者の義務として、管理者は病院に医師を宿直させなければならない旨規定するが、これは個々の勤務医師に当直義務を課したものでないことは明らかである。しかし医師が病院開設者と、常勤医師としての雇傭契約を締結した場合においては、同法条を前提として医師と病院開設者の間において、医師が病院内では、その専門的知識と能力に基き患者に対する診療につき全面的に責任を持つことの合意が成立したことに外ならず、契約締結の際に当直をしないとの特別の合意がなされないかぎり、勤務医師は雇傭契約それ自体から当直をすべき契約上の義務を負担するものであつて、特に就業規則等を必要としないと解すべきである。本件においては原告らが被告に常勤医師として雇傭される際、当直をしないという特段の合意をしたことを認めるに足りる証拠はなく現に原告らは、採用以来、前記当直拒否をするまでは継続して当直勤務に服していたのであるから、その義務があることは明らかである。

しかも、被告の就業規則が原告ら医師にも適用されるものであることはその規定の仕方上明らかであるところ、成立に争いのない甲第三七号証によると、同就業規則四二条ないし四四条は業務上必要な部署に所属長が当直をさせ、当直の割当は所属長が定める旨規定していることが明らかであるから、この点からも原告らが当直義務を負担することは、明白である。

(2) 当直拒否の争議行為としての正当性

病院等に雇傭される医師も労働組合法上の労働者であることは明らかであるから、労働組合を組織して、目的および手段の面において正当な範囲内のものである限り、争議行為をなしうることは疑いがなく、右の争議行為には診療放棄及び当直拒否が含まれると解すべきであるが、診療業務の特殊性を論ずるまでもなく、患者の生命、身体の安全を脅かし、患者の病状に相当の悪影響を及ぼすような行為は、労働関係調整法三六条類似の特別の立法の有無にかかわらず争議行為としてもなし得ないことは、条理上当然であるといわなければならない。治療の停廃も、それがある程度の期間継続すれば患者の病状に悪影響を及ぼすことがあり、また病状の変化は必ずしも予測を許さないものであるから、医師ら病院の従業員が争議行為を行なうにあたつては、予め患者の生命、身体の保全に遺憾なきを期するとともに、患者の身体、精神の回復をはかるべき病院の使命に対する管理者側の真摯な努力にもかかわらず、緊急事態発生の客観的危険性が現われた場合には、その善後措置に協力すべき義務があるというべきであり、この保全の措置を怠りまたはこの協力義務に違反すれば、争議行為は、正当性の範囲を逸脱するものとして違法性を帯びるに至ると解すべきである。

これを本件についてみるに、成立に争いのない乙第八九第九〇号証、第九一号証の一ないし三、第九二号証、第九三号証の一ないし三、第九四ないし第一〇〇号証、第一〇二、第一〇三号証、第一〇五ないし第一〇七号証、第一一二号証の一ないし五、第一三〇号証、原告坪井、同河野各本人尋問の結果を総合すると、原告らは昭和四七年三月一四日以降六月一六日までの間、当時既に解雇され病院敷地内への立入禁止仮処分命令の発せられていた原告秋根、同成瀬、同佐藤をも含めた七名の医師による独自の当直表を作成して院長に提出したうえ、理事長、院長による再三にわたる右原告秋根ら三名を除いた他の四名による当直の業務命令を無視し、自ら作成した独自の当直表に基いた当直勤務にしか応じなかつたため、その間の九四日間に福山院長は通算三八日間という当直勤務を強いられたうえ、六月一七日からの全面当直拒否は約一ケ月間も続けられ、その間福山院長は殆んど連日当直勤務を強いられたために、肉体的、精神的に疲労困憊ししかも腰痛まで起したのであつて、このような院長の当直勤務の連続はもはや、肉体的精神的限界を越え、院長自身がいつ倒れるかも知れない状態となり、患者に対しては責任をもつて診療にあたることも困難となり、患者の生命、身体に重大な危険をおよぼすかも知れない状態となつたにもかかわらず原告らは、これに協力しないのみかその支援グループとともに、当直拒否の代替として、被告が応援を依頼したパートの当直医に対して三萩野病院に当直医として行くことを断念させるために再三にわたり執拗にその私宅まで押しかけて脅迫し、近隣に誹謗中傷のビラ貼りやニユースカー宣伝を行なつたり、脅迫電話をかけるなどして、徹底した嫌がらせを行ない、しかもそのような事実が医師の間に知れわたつたため被告による当直医の確保を極度に困難にしたことが認められるのであつて、原告らのこのような常軌を逸した行為のために病院の診療業務は阻害され、患者に対する責任ある診療体制の維持はほとんど不可能となり、これが患者の生命、身体の安全を脅かし、患者の病状に相当の悪影響を及ぼしたことは明らかであり、しかもその方法も福山院長個人を精神的肉体的にまいらせて、自己の要求を貫徹しようとする悪質陰険なものであることが認められ、原告坪井、同河野各本人尋問の結果中、右認定に反する部分は採用できず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。そうすると六月一七日以降の当直拒否は全体として正当性の範囲を逸脱した違法のものといわざるを得ない。なお、原告らは被告の医師労働組合との交渉拒否を主張するが、成立に争いのない乙第一三〇号証甲第七一号証の一ないし三、第七二号証によると、昭和四七年四月七日「医師労働組合委員長清水正法」の名による交渉申込みを受けた被告理事会は、「医師労働組合」なるものとの交渉となれば、結局原告ら全員が交渉の席に出て来る事となり前記のような二月二七日以降の原告秋根、同佐藤、同成瀬および支援グループの病院乱入と集団暴力の経過(理事長自身が原告佐藤より足蹴りにされるなど)からして到底正常な話し合いは期待できず、不測の事態も起りかねないとの判断から場所を病院内として原告坪井、同河野、同清水となら話し合うと返答したのであつて、交渉自体を拒否した訳ではなく、原告らがこの条件を受け入れなかつたため交渉は行われなかつたことが認められ、原告坪井、同河野各本人尋問の結果中、右認定に反する部分は採用できず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

右「医師労働組合」が労働組合の実体を有するものとしても、理事会の返答は、単に交渉の場所と出席者を指定したにすぎないものであり、前記のような状況から判断して、この指定は決して不当なものではないというべきであるから、理事会の不当な交渉拒否というのはあたらない。従つて被告の不当な団交拒否があつたとの理由からでも前記のような「争議行為」を正当化することは出来ない。

また、前叙三月二七日から二九日までの外来診療拒否についても、前記証拠によると、この外来診療拒否は、その前日に至るまで労調法上の事前手続はもとより被告に対する通告すらなされずまた事前に交渉の申入れもなければ要求もなく突然行われたものであり被告としては代替医師を手配して外来診療体制を確保することなど全く不可能であつたことが明らかである。

もとより同法三七条違反の争議行為が当然に違法不当であるとはいえないとしても、本件外来診療拒否は、前記三月一四日以降の一連の状況を合わせて考察すると、全体として争議権の範囲を逸脱した違法なものといわざるを得ない。

4、以上1ないし3の事実は之を総合するまでもなく、そのいずれもが、市井無頼の徒の所業と異ることなく病院従業員としての品位を疑わせるに充分であり、就業規則一五条一項八号の「従業員を解職するに足る重大な事由」に該当する。

しかして成立に争いのない乙第一一〇号証の一ないし三、一一一号証によると、所定の解職手続をとつていることが認められるから、原告坪井、同河野、同清水に対する第二次解雇が有効であることは明らかである。

二  原告らは、本件第二次解雇は解雇権の濫用であるから、無効であると主張する。

然し乍ら前認定のとおり、昭和四七年二月二七日以降第二次解雇までの原告坪井、同河野、同清水の言動は、医師である前に人間として常軌を逸した行動と評する外はないのであつて同原告らに対する第二次解雇はいずれもまことに相当であつて、何ら違法不当な廉はない。

他に本件全証拠によるも第二次解雇が解雇権の濫用に亘ることを認むべき証拠はない。

三  原告らは、本件第二次解雇は、一旦確保された医師の員数を医療法および同施行規則の要求する基準員数より下回る員数とする違法行為であり、民法九〇条により無効であると主張するが、右主張は、原告秋根らについて前述(第二の三)したと同一の理由により採用しない。

四  原告らは、第二次解雇は、反対の予想される原功、上野博郷両理事に通知なく開催された寄付行為違反の理事会により決議されたものであるから、違法無効な解雇であると主張する。本件第二次解雇を決議した理事会の開催にあたり、右両理事に対する招集通知を欠いたことは当事者間に争いがないが、成立に争いのない乙第一一〇号証の一ないし三、証人浜田勝憲の証言によると、昭和四七年二月二六日の第一次解雇以来、病院内乱入や原告坪井、同河野、同清水の当直拒否、診療拒否により三萩野病院の診療態勢は混乱し、外部から当直医としての応援を求めて診療態勢を確保する必要があるに拘らず、原告坪井ら三医師が院内にいるかぎり、その確保ができないので、同年七月一三日の理事会で、前記二名の理事を除いた八名の理事が出席してその全員で右原告坪井ら三医師の出勤停止を決議した。その際、解雇の意見も出たが、一応様子をみるということでこれを留保し、その前段階としての出勤停止にとどめたが、その後も依然として診療態勢は混乱したので、この際医療態勢を整えることとし、外部の医師にも、右原告坪井ら三医師を解雇すれば三萩野病院に勤務してもよいという医師がいたので、右原告坪井ら三医師を解雇することとし、前記二名の理事を除いた八名の理事が出席した同年八月九日の理事会において全員一致で第二次解雇を決議したことが明らかであつて、その間原、上野両理事の理事会に対する態度や意向は第一次解雇当時と全く変りのないことが窺えるのであるから、右理事会に原、上野二名の理事が出席していても、その決議の結果には全く影響がなかつたというべきであるところからすれば、前記招集手続の瑕疵は右決議の効力に影響を及ぼさないこと、前叙(第二の四)と同一であり、この点の原告らの主張も失当である。

五  原告らは、本件第二次解雇は、第一次解雇後になした原告らの医師労働組合としての一連の争議行為に対する弾圧であつて、不当労働行為であり、無効であると主張する。

然しながら前認定のように、第一次解雇後の原告らの当直拒否、診療拒否等の行為はいずれも争議行為としての正当性の範囲を逸脱した違法のものであること明らかでありしかも第一次解雇は既に認定したように正当なものであるから、第二次解雇は何ら不当労働行為を構成するものではないというべきである。

また、原告らは、被告が団体交渉に応じなかつた旨主張するが、前認定のように、被告は団体交渉を拒否したものではないこと明らかであるから、この点も何ら不当労働行為となるものではない。

その他本件全証拠によるも、被告の不当労働行為の存在を認めるに足りる証拠はない。

第四  結論

以上説示のとおり、原告らに対する解雇はいずれも有効であり、それが無効であることを前提として被告に対し雇傭契約上の権利を有することの確認等を求める原告らの本訴請求は、いずれも理由がないから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 鍋山健 内園盛久 横山敏夫)

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